僕が船をはじめたわけ


僕が船をはじめたわけどうやったら船遊びができる?との問いをよくいただきます。
お金がないと出来ないんだろう!とも
僕は、残念ながら家がお金持ちとか、事業で成功してお金を持っていると言うことではまったくありません。
ではどうしてなんでしょうね
そうですね、それを説明するのには、実例として僕のことを書けばいいのかな
と思い恥ずかしながら、僕の生い立ちから書いてみます。(少し誇張が出てしまうかな?)
south Beach
僕が決定的だったのは、
鎌倉の海の近くに住んでいた、というところかな。
当時は、太陽族というのか、湘南族というのか、石原裕次郎、加山雄三さんらの影響か大人達はそれが大流行。鎌倉の家の前の浜にもかっこいいおにいさん、おねえさんがかっこええ車に乗って湘南道路を走り回っているという感じ。でも、海の沖にも目にも鮮やかな白い帆のヨット達がかっこよかったんです。そしてその潮っぽさがあか抜けていた。砂浜で遊んでいると気の荒い漁師さん達とも友達、というかかわいがってもらっていました。なにせ、遊び場と言ったら海か山の中をかけずり回ることしかなかったんですが。
小学校3年生の頃だったと思うのですが、おふくろの知り合いの大学生のお兄ちゃんが僕のことをかわいがってくれていました。そしてある日かんちゃんというそのお兄ちゃんが、葉山マリーナに僕を連れて行ってくれました。当時の葉山マリーナというのは、なんといってもお金持ちのたまり場的イメージで、僕なんぞは足も踏み入れたことが無かったところです。そこに連れて行って貰って、彼のお金持ちの友達が所有するヨットに乗せて貰うこととなったのです。
来ているお兄ちゃん達はかっこよく、そこに群がる女の子達は美しくうらやむような光景でした。そこで始めて乗ったのが今考えると小さい24フィートほどのヨットだったのです。
それが始まりです。
いつしかあーいうふうにヨットに乗って遊びたいと痛切に思った物です。
それ以来、本屋で立ち読みするのは高額なヨット関連の雑誌です。とても小遣いでは買えませんでしたね。
そうしているうちに、うちの隣に「スフィンクス」というサーフィショップができます。さらに、ホビーキャットというアメリカっぽい派手なヨット(ディンキー)の置き場がすぐ近くに出来ました。僕は学校から帰ってくると、用もないのにそのヨットヤードをうろうろ、サーフィショップも毎日うろうろ。そうしているうちに、そこのアルバイトである大学生のおにいちゃんやお姉さんと仲良くなります。
アルバイトの大学生とは言っても僕にとっては背伸びも出来ない大人の世界。でも彼らのおかげでそこに立ち入ることが出来ました。暇を見つけてはそこに行き、置いてある雑誌を片っ端から読んで、(ほとんどが英語の雑誌だったのですが、意味もわからずかまわないで憧れの目で読んでいました)
そうやってヨットの知識を身につけて、大学生のお兄ちゃん、お姉ちゃんの役に少しでも立てればと僕が出来る手伝いもしていました。
だんだん体が成長していくと共に、ヨットの道具などのセッティングなども出来るようになります。ちょっとの手伝いも船をさわれるだけで楽しい僕は、にこにこしながら手伝って、いわばヤードボーイです。
そのうち、ヨットに乗りに来る人たちとも仲良くなっていきます。
手伝っていると、閑だったら一緒に海に出るかと誘ってくれる人も出てきました。海に出れるのならと一生懸命手伝いますし、わがままなんて言ってられません。
そうやっているうちに、ホビーキャットがだんだん盛んになってきて、レースとかが催されるようになりました。
Hobie Cat1
当時は新しく斬新なアメリカ!というのが流行の最先端。それまでのモノハルとは違ってこのカタマラン(双胴艇)はとにかく格好良くアクティブでした。ホビーキャットにのめり込む毎日。艤装の仕方やヨット特有の名称などは、雑誌を漁るように読んで覚え、家で勉強しているようにみせかけては、ホビーキャットの絵を描いていました。
Hobie Cat2
そして、盛んになってきたフリートレース。まだ中学生で体も軽く機敏に動ける僕は、フライングサーカスと異名をとるホビーキャットの微風時でのクルーをやるのにはうってつけだったようです。そこに目をつけたオーナーの一人がレース参加の予備クルーとして僕をしごいてくれましたた。もちろん、文句一つ言わず目をランランと輝かせて楽しませて貰いながらです。そうやってレースなどに出させてもらえるように成りました。
話しは飛ぶのですが、風が強くなって波が出てくるとヨットはしまわれてしまいます。オーナー達はビールを飲みながらのんびりすごしますが、僕はもっと海で遊びたい。となるとサーフィンですが、高くて買えない。それで、なけなしの小遣いでスケートボードをそのショップから安く売って貰いそれでサーフィンの練習をしました。
同級生のお兄ちゃんがサーフィンをしているというので、連れて行って貰ったりもしました。たまに、サーフショップのアルバイトのお兄ちゃん達にぼろぼろの奴を借りてのサーフィン。最初はライディングの前のパドルの練習なので、板なんかなんでもいいんです。その先輩がある日、小遣いいくら貰っていると聞かれ、僕が持っているお金で板を譲ってくれました。うれしかったなー。
夏休みともなれば、毎日、トランクス一枚でヨットとサーフィンをしていました。サーフィンはやはり稲村が波が良いのですが、目の前の坂の下の海にだって波は立つ。練習にはそれで充分でした。寒くなってくるとウエットスーツが欲しいのですが買えません。みかねた先輩がぼろぼろの奴をくれるまでT-シャツ着てやっていたな。
高校生の時には、アメリカズカップが話題になっていて、当時、CNNの創始者であるテッド・タナーが12m級のカレイジャス号でタイトル防衛なんてのに雑誌を見て憧れてました。そうそう、本もやはり海関係の本を読んでたな。中でもヘミングウエイの「海流の中の島々」はその後僕に大きな影響を与えてくれました。後忘れられないのは既に廃刊になってしまってるけれど、石原慎太郎氏の「ネクタイをした野蛮人」シリーズ。これはほぼ、湘南のヨット乗りの話しが出ていました。憧れました!
それで、大学生になったらなんとしても外洋クルーザーに!と思い、ヨット雑誌をめくっていたらなんと巻末にクルー募集というコーナーがあり、それから日本の外洋レースはどうなっているのか、何処が強いのかを勉強しだしました。そんなある日、ある有名レース艇のクルー募集という告知を発見。しかもそのレース艇は、かの石原慎太郎氏のシンジケート、湘南マフィアの一員。
すぐに電話して申し込みました。
快く受け入れてくれ、それからクルーザーとの生活が始まるかと思いきや、4月から始めて夏を越すあたりに、ある先輩を殴ってしまいクビ。何故喧嘩したのか今では良く覚えてませんが、とにかく殴っちゃった。ヨットは外洋に出れば、そこは死と隣り合わせになる。喧嘩をして頭に来たら殺すのは簡単。走っている船から突き落とせばいい、だからもう同じ船には載せられない、という理由でクビを言い渡されました。
これはその通りなのです。そういえば最初の頃「船の免許を取りたいのですが」というと、「あんなもんは紙一枚、金で買える氏船には一枚あればいい。それよりも経験を積め。でないと船は動かせないぞ」本当におっしゃるとおりです。
あるときいきなりティラー(舵)を持たされ、操船してみろといわれました。といってもまっすぐ走らせるだけなのですが、「どうだ、船っていうのはまっすぐ走りはしないんだ」。おっしゃるとおりなんです。潮、風、波、いろんな作用があって船はまっすぐに走らせることが難しいのです。この船では短かったけれど、いろいろな海の掟を教わりました。
サーフィン、ホビーキャット、ビーチでの女漁りと学生生活はいかがわしくも素敵な先輩達と一緒に楽しみました。
そうそう、ただただ困ったのは小遣いだったな。
日中は海で遊んでいるわけです。トランクス一枚あればなんとかなるのですが、夜は先輩サーファー達が遊びに行く。当然それに行きたいけど金はなし。新島や千葉にサーフィントリップの誘いを貰っても金は無し。
まさか大学生になってまでも親に小遣いをくれなんてかっこわるくて、当たり前ですがアルバイトをしました。いろいろ考えたな。東京は白銀にある大学に通っていたので、そこの友達から夜間飲食店組合(ディスコ、クラブ、キャバレー等)の仕事が金になり女にも困らないと誘われ、確かにそれをやると便利なのだが、鎌倉の家に帰ってサーフィンができなくなってしまう。昼は海に居たいし。でも一年生の時にはわからないまま、観光地鎌倉ならではの料亭での皿洗い、そして日当一万円だったブルトーザーの解体にいったりしていました。
そうやって過ごした一年生の夏、ある時に本屋でベストインUSAという雑誌を見たのがきかっけで(これはポパイの前身だそうです)変わっていきます。小学生の頃から行かせてくれたスキーなのですが、それも金がかかるなーと思ってその雑誌を見ていると、UCLAの学生達の話題で、スキーはスキー場でアルバイトをしながら過ごす!というスキーバムの記事が目に入ったのです。これだ!バイトしながらスキーすれば良いんだ。それからリサーチします。大きく分けると開発系、これはリフトの運行のバイト、飲食店系、宿泊系、添乗員系とあります。毎日滑るのだから大きなスキー場と考えると、東京から考えられるのは、白馬、志賀高原、苗場の3つくらいが当時のメジャーでした。その中で、昼間は思う存分スキーをし、夜働きながら美味しい余録がある、夜間飲食店組合が当然のように浮かびます。それからはコネ探し。そうやって引き当てた先は、志賀高原一ノ瀬スキー場のホテルでした。そしてそのホテルにはディスコがありました。
すぐにつてを頼って申し込み、クリスマス前にそのホテルに入っていました。クリスマス前にはまだバイトも揃っていなくて、少ない人数で慣れない仕事を全てやらされました。朝は5時起き、朝食の準備と配膳、片づけ、そして客室のふとんあげ、それが終わってからゴミ出し。昼飯を食って、3時までの自由時間に滑ります。3時30分から夕食の支度。配膳、片づけを済まし9時頃解放されます。すぐに風呂に行って、服を着替えて地下にあるディスコを手伝います。ディスコは朝の4時までやっているのですが、僕は12時までの忙しい時間を手伝ってそれから店に居残って・・・その忙しさが毎日正月7日くらいまで続きます。奴隷生活は船で慣れていたので、なんとかなったのかな。2月、大学の試験が終わると山に籠もります。でも、一年目はディスコ専属にはさせてもらえなく、2年目からやっとディスコ専属にしてもらいました。
ディスコに居ると、一ノ瀬中の従業員が集まります。中にはリフトのお兄さん、スキーの先生、そんな人たちと仲良くなると余録があります。リフトは顔パス。毎日3時30分から行う先生同士のスキーレッスンに参加。スキーメーカーの人たちから用具を貰ったりもしました。東京のディスコの人もスキーに来ます。DJも面白がってしてくれたり、レコードをもってきてくれたり。
何よりスキー場で働いていると、お金を使うことがまったくないので、降りるときにはかなりの額のお金を持っています。それが夏の軍資金になります。
3年目、4年目の時には歩合制にしてもらいました。ディスコが儲かれば僕も儲かります。ホテルのディスコなので、まず格好いい、女の子に持てそうな男の子を選んでディスコに入れます。昼間、そいつらをスキーレッスンしながら、ナンパさせます。8時までに店に来てくれればただにするというチケットをもたせて。
おかげで、その店は夜の8時前には女の子で満席です。となると、男が来ます。彼らは女の子に奢ります。9時には店の前は行列です。流行り出すととことん流行ります。つまらない女の子の取り合いで客同士の喧嘩もあります。おもしろかったなー。
長く成っちゃいました
続きはまたにしましょう


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