死生観


死生観

僕と同じ年の親戚が亡くなった。昨日おとといは通夜と葬式。


正直、まいった。日興証券に勤めていた彼とは、僕がオンワード時代に職場が同じ日本橋だったので、会社帰りに飲んだりして夢を語り合い、しかもお互いスキーが好きで何度か一緒にスキーを楽しんだ中。彼には僕と同じどころかもっと責任の重い家族が、子供たちがいて、本人はその行く末を心配しながらの他界への旅立ちだったんだろう。


先々週、見舞いに病棟を訪れた時は、なんだ元気なんじゃんと思ったほど、快活にしゃべっていたんだけれど、その時、僕はまったく心なしに「今織田信長を読み返しているんだけれど(司馬遼太郎「国盗り物語」、男の人生50年だよな!それを俺たちはとにかく生き切ったよね!」なんて無責任にも言ったのが結局最後のお別れになっていまった。


通夜、葬式では残された家族、奥さんと子供3人、奥さんとは、いろいろな話をしたんだけれど、やはり今後の生活、うーむ、何とも言えず、せめて僕にできること、子供たちが海で遊ぶのなら鎌倉においで、しか言えない。


実は彼の子供の中の一人はダウン症、でもけなげに御母さんに寄り添って、しかもお兄ちゃんが一生懸命そのこの面倒をやさしく見ていて。そういう意味では僕は本当に恵まれている。健康な子供たち、それだけでそれ以上の期待をする、勉強をしなさい、いい子でいなさい、それも親の心情の一つだけれど、いや今が足りていることに感謝すべきだと、心から思いました。


人は必ずいつか死ぬ。早い遅いはあっても、確実に僕も死ぬ時が来る。それを旅立ちととらえられるのか、


読経をしてくれる、御坊さん。彼はその旅立ちの後、それを本当に知っているのだろうか。死んだあとどうなるのかは誰も知らないはず


通夜の席で、僕は心の中で、「おい、お前の肉体が死んでも魂がそこにあるのなら、祭壇のろうそくを揺らしてみてよ!」と語った時に、


なんとそれまでまっすぐに立っていた蝋燭の炎、隙間風もあり得ない環境で僕の問いに応えるかのように揺れました。しかも、何度も、揺れせて見よ、と願うがごとく炎が揺らいだのです。


うーむ、死んだら本当にどうなるんだろう。僕が死んだときの葬式、それはいったいどういう弔辞が読まれるのか、誰が泣いてくれるのか。なんかさまざまな死生観が頭によぎった、この週末でした。


 


 


 


 


 



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