まえーに僕がどうやって波乗りを始めたのか、船に乗り出したのか、お金もないのに遊んでいたか
なーんてことを書きましたが
夢は叶った!!
今日はこれをテーマに書こう
この写真は、僕が20歳代の時に30歳までに建てると夢を描いていた鎌倉の家です。実現しちゃったんだな!(その顛末もまえに書いたと思うんだけれど)
そうそう、前後しますが、ボートに乗り出した顛末は・・・
ホビーキャットというヨットに乗っていたのはヤードボーイみたいなことをしながら乗れるようになったのですが、就職してから始めての給料袋
それを、がきの頃からヨットに乗せてくれていたあるオーナーのとこに持って行きました。金が稼げるようになったから、この中からいくらでも取ってくれと
というのは・・・
そのオーナー、本当に僕によくしてくれていたのです。もちろん僕もその船のメンテナンスやらなにやらをやっていましたが、クルーとはいえ、いつも僕をその船に乗せてくれていた。それで給料袋を差し出したのです。
そしたら、月に一万円だけ貰う。そのかわり共有者として船を使って良いし、これを潮に新しい船も買おう!と言ってくれたのです。
んで、さっそく新艇を注文。その船は僕の船でもあるかのように使わせてくれました。だから、その頃は友達(もちろん女の子も)を誘ってヨットで遊んだりできたのです。考えてみれば贅沢だよな!
そしているうちに、でもやっぱりクルーザーに乗りたいよな、海岸ではなくてマリーナなんかから島に行ったり出来ると良いなと、また新たな夢を描き出したのです。そんな時に、波乗りの後輩が逗子マリーナにクルーザーを買って置こうという先輩がいる。話しをよく聞いてみると僕の高校の2年先輩。面識もあった。後輩君と一緒に逗子マリーナに訪れると、34フィートのいかにも遊びますというようなオープンクルーザー。もちろんキャビンは冷暖房付き
嵌りましたね!その先輩オーナーともすぐに意気投合!!なにしろスーパーウエッポン!この船でいろんな物語が生まれました。たぶんkimi社長が好きそうなお話し!!それもおいおい書きますね!!
そうやってヨット、サーフィン、クルーザーと忙しく遊び暮らしておりました。仕事も、そのころはスポーツマーケティングの会社で仕事をしていて、電通がやったサムタイムワールドカップ(WSF)やらニッポンカップ(ヨット)などの仕事を無理矢理しながら、海に携わる仕事ができたらいいなと思っていたら、まさしく渡りに船。いまの会社に転職することができ、僕にとってはどこまでが遊びで何処までが仕事だかわからないという、とても恵まれた環境で仕事をし、生計を立てることができるようになりました。ね!夢は叶っているでしょう!!
一年中色は真っ黒。楽しい毎日で顔色が悪くなってもまったくわからないくらい
そして、僕にとってのその時が来たのです。その前にもうひとつ、その前年にぎっくり腰、椎間板ヘルニアになってしまい、手術をしなくては治らないということから、さあ明日から入院して手術というその晩に、長いこと床に伏していたおばあちゃんが亡くなり(にんまり笑って亡くなっていました)手術中止!ということがあるのですが、それを書くととっても長くなるのでまた今度。
34歳の楽しい夏が終わり、秋めいてきた頃、といっても僕たちはロサンゼルスにいるかのように夏を逗子マリーナで満喫しておりました。ところが、そんなある日
会社帰りに、貰ったチケットで同僚と東京ドームにナイターを見に行きました。一杯の缶ビールを飲んでいると、急激に酔いがまわって、ふらふら
失礼して僕は横須賀線に乗って帰ってきました。でも駄目なんです。途中駅で3回下車し、胃潰瘍かなんかだろうなと思いながらトイレに駆け込んで吐きまくり。
翌日、逗子マリーナの船に女の子達を招待していたのでとにかく船にいったのですが、駄目なんです。まったく。吐き気と断続的に襲ってくる強烈な痛みでもうどうしようもない。
それで、その前年に亡くなったおばあちゃんがお世話になった、江ノ電の鎌倉高校前というところにあって、海が一望できる病院、そこの院長先生ともおばあちゃんのことから家族のお付き合いまでせていただき懇意にしていただいていたので、そこに駆け込みました。胃潰瘍かなんかだから点滴を入れて貰うくらいの気持ちで
ところが、そのまま入院ということになったのです。思い返せば、会社の健診で再検査が必用と言われ続けて放っておいたので、その償いかとも思いました。
検査の毎日
検査を各種しますが原因はわかりません。僕は点滴を入れながらトイレで吐きまくる日々。腹がものすごい痛いのです。なんというのかな、わけわからない黒い痛み。信じられないくらいの痛みでした。それが永続的に強襲するのです。どういうふうに痛いのなんて聞かれても応えようがないほどの痛みです。そして腸検査。胃カメラを肛門からいれて腸内を見ていくのですが、仲良くしていたその先生があるところで息を呑むのが判りました。そして、懇意にしている院長先生、外科部長先生も見に来ます。原因が判明。僕がそのときうけた説明は、腸閉塞。できものができていて腸を塞いでいるというのです。そしてすぐに手術ということに。
病院からの連絡で飛んできたおふくろとともに手術に合意します。小さいながらも海の見えるそこの病院では、ちゃんとした手術室もあるし、何より海が見えるし先生方も知っているし、僕はまな板の鯉!
その後、なんだか遠くからも沢山の親戚とかが来るんだな。中には慈恵医大に知り合いがいるから移れだ何のと言われますが、僕はもうそこの病院で検査を進めているし、ここで失敗したらそのときにはそのときだという気持ちで、その病院で手術することに変更する気はないことを伝えます。おかしなことにムカーシ付き合っていた女の子達まで見舞いに来るんだよな
知り合いの看護婦さんも何かおかしい!
んで、ずばり聞いてみると、僕はそのとき、末期ガンでもってあと3ヶ月。ここで手術はするけれど、せいぜい延命処置で水で洗浄するくらいしかできないとのことだったのです。放射線治療になるとか。よく考えてみればどおりで6人部屋の他の患者は、ガンの末期症状のおじいさんばかり
話しは飛びますが、あのモルヒネというの、あれはすごいですね
僕が打って貰っているのはかなり薄めた奴とのことでしたが、30分だけ、あの強烈な痛みから解放され、ベッドに体が浮いているくらいの気持ちよさになれるのです。当然看護婦さんにねだりますが、一日に打てる量が決められていて、ほとんど僕は点滴をぶらさげながら病院のトイレの便器にしまいついている毎日でしたが
ただ、死というものを現実的に目前にしたのですが、あまり恐怖というか焦燥感というものはなかったかな。これだけ楽しい人生、結婚もしていないし子供もいず、辛い思いをさせ悲しむのはお袋一人。よかったーというのがその無責任さからでたなせる技だったのかもしれない。生ききったとは思っていないけれど、人生悔いは無し!それだけ沢山のおねーちゃんとも知り合えたしな!というのが心境でした。
そして手術。麻酔の女医さん、いい女で口説きながら僕は落ちました。朝から始まった手術だったのに、気がつくと夜。そうすごく長い手術だったんだというのがわかりました。体中は動きのとれない管が何本も
でも痛みがそれまでのとは違い、明るい痛みなのです。痛いのだけれどとっても明るい。自分の腸に他人の手の痕跡を感じるくらいなのですが、とにかく痛さが理解できるのです。
そのときにひょっとしたら僕は助かるかもしれないと思いもしました。もし生かされたのなら、40歳までには結婚して、子供、僕の血を残す子供を!と何故か考えたのを覚えています。
入院生活は日々、元気になっていく自分の体がわかるのです。ある日、朝から良い波だなと病室から見ていると、あるサーファー友達がやってきて言いました。今からここのポイントで波乗りすっからよ!見てろよ!!
そして彼らは、僕が病室から見ているのを意識してか、ずーっと波乗りを見せてくれます。
そして、帰りに、看護婦さん達に怒られながらもウエットスーツのまま病室に来てくれました、「どうだった?」
「ばかやろう!へたくそじゃん!!俺だったらあそこでもっと派手なスプレー飛ばしてカットバックしてやる!」というと
「じゃー、早く元気になって見せてみろよ!」と
そうやって闘病生活を続けます。一本一本管がとれ、みるみるまに回復していくのがわかるくらいである朝、なんとアサダチまでしているのですが、一向に退院の話しはでません。やはり駄目なのかなと思うときもあるのですが、とにかく体が元気!
そうやって数週間を病院のベッドですごします。おじいちゃん達とも仲良くなるのですが、なんかいろいろな人生を感じたな。そして亡くなって行かれる方もいらっしゃいました。
もう全然元気!このまま病院にいては看護婦さんたちを口説きまくりでかなり危険な状態!というときに、院長先生から退院の知らせを受けます。これは意外で嬉しかったな!ずーっと癌研で僕の切り取った細胞を調べたそうです。末期ガンで転移をしていたのだが、それをなんとリンパがまわりを取り囲み、バリケードのようになっていたとのこと。そのバリケードが漏れていないか、それを癌研で調べていたようです。それでOK!奇跡だ!信じられないことだとも言われました。
助かった!僕は生きることを許された!とその時に素直に思いましました。実際の退院はそれから少したってからだったのですが、退院してびっくりしたのは、僕が入院中、知り合い3人が亡くなっていることを知りました。ひとりは交通事故で、ひとりは自殺、そしてもうひとりは癌で。
僕は、まだ生きていていいよと言われているような気がしたな。そして生かされているんだと思いました。
ただその時に思った結婚というのは、これから相手を探さなくてはいけないし、それには何より癌の完治証明をもらわなければならなく、それには5年がかかるのです。そしてそれも夢だったのが、叶うのです。しかも僕にとって最高の女房と子供達。しかも絶妙のタイミングの40歳の誕生日を迎えるまえのことでした。
さらに、退院してから相当体が脆弱になっているのがわかりました。退院した翌日、僕は横須賀線に乗って会社に行くのですが、座っているのだけれど電車にのっているだけ疲れ切ってしまい、東京駅のベンチで少し寝ないと動けないほど弱っていたのです。正直ショックだったな。それで、まず体造り。
そして忘れもしない翌年3月20日。たまたま稲村に良い波が来たのです。僕は板をもって久しぶりの海へ。波待ちをしている友達がみんなして迎えてくれます。そしてみんなのGO!GO!というかけ声をもらって、僕は波に乗りました。インサイドまで乗り継ぐあいだになんと小さいながらもチューブにもはいって
プルアウトして、沖にでようとするみんなが沖から見ていて、歓声をあげてくれます。嬉しかった!!僕はパドルをやめて、思わず両手を天に突き上げて!
長くなりました