子供達に理?を


子供達に理?を

息子がサッカーをやっているのだが、実はあんまり本人はやる気がないかのよう


というのは、練習の時は僕がコーチなのでか一生懸命やるのだが、普段はまったく練習することもなく、テレビのサッカーもみようとしない。おまけに宿題!これをやっていないのが発覚!!


いつも、もう自分でやるべきことをやらないと駄目と言っていたのに


裏切られた気分はたしかにあったのだが、それをじっと堪えて(ふー、何回堪えればいいのだろう・・・・)


まずはその時を生きる大事さを力説


例えば、海にみんなで行く。わー海は広くて気持ち良いなと誰しもガ思うだろう。でもそれだけではそのときを生きていることにはならない。海について、潮の匂いを嗅いで、日の光のまぶしさなどを感じなければ海に行った事にはならない。ただ、海に行った!だけで終わってしまう。そして、考えることしていれば、海からあがった後についている白い結晶、これは何だと思えるが、考えることをしなかったら、それさえも気がつかない。その白い結晶、それは塩なんだよ!


例えば街を歩いている。ただ歩いていればここは銀座も渋谷もかわらない。でも考えることをしてれば、そこに道行く人の違いがわかるんだ。売っている物も違うかもしれない。どう違う、どうして?と考えればいろんな発見ができるんだよ


サッカーのテレビを見ていて飽きてしまうのも、ただ見ているからだ。そのときを生きていれば、考えていれば、例えばサッカーの選手一人一人を自分に置き換え、僕だったらこうする。僕はこういうことができるかなと考えることによって楽しさが生まれるんだ。


だからそのときを一生懸命生きるということはその時々を一生懸命考えると言うことでもあるんだ。


漢字を覚えるのもつまらないことかもしれない。でも楽しもうと思えば、何回書いたら覚えられるかなと考えるだけ、思うだけで楽しめるんではないか?


そしてそれらは、自分で考えてやろうと思ってやらないと、できないんだ。パパがやれと言って何も考えずにただやっているのはロボットと同じ。やったというだけで何も残らない。でもロボットだったら言われたことは完璧にやれるけれど、人間は完璧にはできないんだ。だから練習をする。練習をすることによって、真似(完璧)が自分のものになるんだ。体が覚えてくれる。そうしたらそのことだけでなく違うことも考えられるようになる。


サッカーでも空手でもバレー(娘)でも、うまくなりたいと思ったら、完璧に上手い人の真似をすることが一番近道なんだよ!


空手で型をしつこく練習するよね。それは何故だかわかるかい?


人間は2本づつの手足、ひとつの胴と頭、そしてそれらの動かし方も決められている。たこみたいに自由にできないし、手も八本もないんだ。後ろを見ることもできない。決められた動きでしかできないから、たくさんのいろいろな人が考えた挙句にできあったその洗練された完璧なうごきやかたち、それが型なんだよ。練習は完璧な型というお手本を真似することにあるんだ。そうやって繰り返し真似をすることによって、練習、すなわち習ったことを練ることなんだ。練れる、それは粘土でもそうだけれど、練ることによって自在に形を変えられることができるようになるだろう。そしてそのうちかそのことを考えなくても体が覚えてくれるんだ。楽しむためには、まずどれくらい自分がその思った通りの真似ができるかどうか、完璧に近いか鏡で見てみるといいんだ。だからうちにはこんなに大きな鏡があるんだよ!そして考えなくてもそのように動けるようになれば、そのときにはもっと違うことが考えられるんだ。そうなると楽しいぞ!!


勉強もそう。うまい字を真似して練習をしているうちにその上手い字と同じ字がかけるようになる。そうなると、他の人が読んでもわかってもらえるんだ。汚い字は誰も読みたいと思わないだろう?着れナ字を書こうと思わなくてmからだが勝手にきれいな字を書いてくれる、そすれば僕は何を書こうと考えることが書きながら出きるだろう。どう書いたら判ってもらえるか、相手のことを考えられるようにもなるんだ。


でも、いくらパパがやっても(練習)君たちが上手くならないように、それらはあくまでも自分で考えてやらなければ、自分の頭で考えて自分でやらなければ、ただやているというだけで生きていることにはならないんだよ!


それを、話し終えひと段落したあとに、それぞれパパから何を教わったのかおさらいをしました(発表会です)。そしてそれを日記に書かせました。でもまた繰り返しやるんだろうな!


 


と、はい!今日の反面教師でした。(くどかったかな?)


 


 


 



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