怖い話 第三話


怖い話 第三話今から7~8年も前のこと。あれはちょうど横浜ベイサイドマリーナが開業したての4月ごろ、軽く考えがちな「ちょっとだから…」、決して海を侮っていたわけではないがその「ちょっとだから」が気の緩みを生じ、そしてあわやという怖い思いをしてしまったこの出来事。いまだに忘れられなく、船、航海というものを改めて肝に命じた出来事だった。
横浜ベイサイドマリーナに係留されている24フィートの船外機艇を、メンテナンスおよび船底塗装のために廻航してほしいという依頼だった。同じ横浜市内で、本当に目と鼻の先とも言える八景島の裏手にある造船所へ、自分にとっては知り尽くした庭も同然、距離にしてもたかだか8マイル程度、20ノットでのんびり行っても30分あればお釣りがくる。しかも外洋を走るわけでもない。東京湾内、つまり平水区域という読んで字のごとくの水域。ちょいと隣のマリーナへ、くらいのとてもお気軽なきもちで引き受けていた。

ただ、その日は朝から北よりの風が吹いており、ちょうど海面に白いうわぎがちょんちょんと飛び出したように見える海象だった。でもうさぎどまり、ひげはまだ掃いていない。いずれにせよ、目的地までほんの少し我慢すればすむだろうという気持ちで、別段心構えも無しにその船を訪れた。
いつもどおりスタンバイの点検をし、特に気に触るようなところも船には感ぜず、充分に暖気運転をし、出港したのが0900 時頃だった。
横浜ベイサイドマリーナのランウエイに沿った長い防波堤をゆっくり進む。風波はほぼ北東からやってくる。防波堤を出たところで東に転針してしまうと真横から波をもらうようで、これはさすがにやっかいだなと正面の南本牧防波堤までそのまま進んだ。防波堤のブランケットの穏やかな海面の中で東に移動し、その防波堤が途切れる辺りから針路を南におとして八景島へと船首を向ける。しだいに波が大きくなり、それを斜め後ろから受け、大型艇ではどうということもないのだが、船外機で走る24フィートは前後左右に揉まれ始め操船も忙しくなってきた。斜め後ろから来る三角の追い波にあわせてローリングする船を舵で押さえながら坂を滑り降りる。波のボトム近くでは船首がその波に突っ込まないように船位を調整。船首が波に突っ込むと派手なスプレーが全身を濡らす。潮が入った目をこすりながら、次の三角波の背に乗りかかる。ガバナーを少し押し込み、波の山を上りつめ、そこでまた坂を滑り出すぞというときに、エンジン音が不規則になった。エ?という驚き。信じられないがエンジンが息をしている。ガバナーを押し込んでも引いても、プスンプスンとエンジンの機嫌は直らない。あわてて燃料計を見なおすと出港前の点検時と同じくまだ4分の1は揺れるゲージに残っている。なにがなんだかわからないままガバナーを神経質に操作していると、エンジンが息をあえいで止まってしまった。
うそだろ!どうすんだよ、と冷たい汗が背中を流れる。が、考える余裕もなく、推力を失った船は追い波の力で真横に持っていかれる。ひっくりかえるのではと思えるようなローリング。やばい、なんとかしなくては。イグニッションをまわすが、むなしくまわる悲しいセルの音だけ。長い経験から瞬間的に原因追求のシミュレーションが3っつ頭をよぎる。まずは燃料系統。燃料タンク内に結露した水が溜まっていて、それがエンジンに入り込んでしまった。これでやっかいなのは、その結露した水が古くから溜まっていた場合、その中に微生物が発生、いわばヘドロのようなものがエンジン系統に入り込んでしまっているとさらにややこしい。二つ目は、タンク通気口もしくはフィラーキャップがしっかりロックされておらず海水が入り込んでエンジンを焼き付かせてしまった。だが、これはかなりの量の海水が入りこまなければならない。フィラーキャップはしっかりとしまっていた。これはないだろう。そしてもうひとつ、一番ありがちなのが船の揺れに伴い燃料タンク内がシェーカーのように振られ、燃料がエアがらみになってしまった。そんなシミュレーションが脳裏をよこぎるがいずれにせよ、こんな揺れる船の上ではそれらを確認することはできない。東京湾特有な三角波に横向きになった船は、木の葉のように翻弄され続けている。まわりを見まわす。金沢の埋め立てた堤防が続く陸まではまだだいぶ距離はあるが、その前には漁業用の網が岸に平行に並んでいる。風はそこに向かっている。それにひっかかれば、船は助かるだろうが金沢の魚組とやっかいな問題を後から解決しなくてはならなくなる。せめてヒーブーツーができれば。このヒーブーツーというのは外洋をいく逃げ場のない漁師さんやヨットなどが、洋上で嵐に遭遇したときにシーアンカーなどを船首から流し、水の抵抗を利用し船を風下に流させて風上に船位を保つ昔ながらの方法なのだが、それをすれば船は少なくとも横向きになっているよりは格段と安定する。さらに定置網までの時間稼ぎにもなる。一番良いのはアンカーを打って船を止めてしまうことだ。その安定した中であればまだなんらかの対処が考えられるだろう。まずは足場を固めなければ。うんともすんともいわないエンジンで推力を失った木の葉のように揺れる船でも、足場さえ固めればまだエンジンの点検もできるようにはなるだろう。放っておいたら、うまくいって定置網、最悪は堤防に粉砕されてしまう。ローリングとピッチングがぐちゃぐちゃになっている船のデッキを、海に振り落とされないように注意しながら船首に走る。シーアンカーとは言わない、せめてアンカーでも入っていてくれ。バウロッカーをのぞき込むと、あった、ロープと一緒にダンフォースのアンカー。揺れる船の中で頭をぶつけながら苦労して取り出してみると6kgのアンカー。うーこれでは波のない静かな入り江ならともかく、こんなに波があるところでは船首が波に持ち上げられるたびにシャクってしまってうまく海底を掴んではくれないだろう。でもとにかくアンカーはあった、まったく無いよりはましかと気を取り直し、ロープのエンドをクリートにしばりアンカーを海面へ。このあたりの水深は20mくらいのはず。ずるずるとロープを出していき、めいっぱいで60mくらい出た。水深の3倍、うーむ、たとえアンカーチェーンがついていたとしてもこの波の中で果たして効いてくれるか。しばらく様子を見るが、周りの景色は動いたまま。海底にひっかかることなく走錨している。たのむ、どこかに引っかかってくれ!

祈る気持ちでアンカーをそのままにし、また船尾に走る。とりあえず、船外機のカバーをはずして燃料フィルターを見ることにした。ところがこの揺れの中で、まず船外機のカバーがうまくはずれてくれない。何度か試みてみるが、潮でつるつるのカバーが滑ってしまうのと足場が悪く腰をいれられないのでカバー全体がうまく浮いてくれないのだ。ふと、小さいキャビンを見ると、毛布にくるまった船外機のペラが見える。オ!そうだった、補機が積んであったんだ。ベイサイドマリーナはご存じのように厳格に区画の枠内に艇全部が入らないといけないために、補機を取り外して係留されている。まったくこれでは補機があっても装着されていなければこんなときには役にたたないではないかとぶつぶつ言いながら、見ると9馬力の小さい船外機。普段使っていない船外機が役に立つのかどうか、取り付けてもうまく火が入ってくれるのかどうかもわからなかったが、とにかく今は他に方法がない。9馬力の船外機、40kgくらいか。揺れる船の上で自分一人が2本足で立つのも至難の業だが、なんとして取りつけなければ。大丈夫。やってみせるさと自分自身を激励しながらうんしょと船外機を持ち上げる。体もホールドできない。でもごまかしごまかし、体をほうぼうにぶつけ船外機を守りながら船尾のトランサムボードまで運んだ。ここで海に落としてはならない。船外機をロープで縛り付け、海に落とさないようにしてからトランサムボードに取り付ける。周りの景色は依然風に流されたまま。動いていない船だったらこんなもの、簡単に取り付けられるのにと思いながら、おそらく30分程を一人で格闘。波を見、揺れを予想しながら格闘技で鍛えた四股立ちでふんばって、間合いを計りながら力を振り絞って取りつける。できた。やったぞ。ホッとしたのもつかの間、まだまだこれからだ。周りの動く景色を見ながら、おもむろにスターターロープを引く。だが、エンジンに火は入ってくれない。むなしくローターがまわるだけ。失望感が渦巻く。だめか。燃えない生ガスが鼻をつく。ウッと吐き気がする。なにくそ、こんなことで負けてたまるか。吐き気を押さえるために深呼吸を繰り返す。口から息を吐いて、そしてゆっくりと鼻から吸う。その鼻から吸う空気は体に良いオゾンが一杯なんだと思いながら。腹いっぱい空気を静かに吸うと、そこで息を止め、腹に溜まった空気が自分のけつの穴とお臍のちょうど中間あたり、つまり丹田と呼ばれるとこに溜まるように意識をする。そうしておいて、そのきれいな塊が体の中の悪いものをすべて巻き込んで、抜けていくように意識をしながら、丹田から背骨にそって頭のてっぺんから放出するように止めていた息を吐き出す。3回繰り返した。気分が楽になると同じに、筋肉に溜まっていた乳酸が溶けていくような気がする。大丈夫だ。気を取りなおしてスターターロープに手をかける。助かる道はこの補機だけだという執念があったのかもしれない。必死でスターターロープを繰り返し繰り返し引っ張る。全身はぬれねずみとなって、体温が失われ体力がどんどん奪われていく。つらくなればさっきの深呼吸を繰り返す。そしてスターターロープを引っ張る。荒れた海の上でただ一人、孤独というものを感じる。頭の中をいろんな思いがよぎる。本当だたら今ごろは事務所に戻って昼飯はなんにするか、そんな考えから始まって、なんでこんな海が好きなんだ、子供達のこと、女房のこと、様々の思いが頭をよぎる。いかん、集中しなければ。スターターロープでできた血豆が破れそうになる頃、雑念を追い払って神経を集中しスタータロープを引っ張る。すると、シリンダー内に爆発を感じた。う、かかるかもしれない。夢中でスターターロープを引っ張ると、今まで眠っていたエンジンが真っ白な煙と共にやっと目覚めてくれた。嬉しかった。さーなんとかなる、と周りを見ますと、もうすぐ定置網を示す横一列にならんだ白いブイが波間に見え隠れしている。もたもたしている暇は無い。急いで船首へと飛んでいき、アンカーロープを引き上げる。だが、体力を使い果たした体にはこれが重い。手を伸ばして筋肉を休ませながら体全部の体重を預けて、背筋を使ってゆっくりゆっくり揚げていく。やっとの思いで揚げきったときには、もう定置網が目の前。急いでエンジンをまわしてそこからの脱出をはかる。ガバナーをおもむろにあげると、しゃくった船体でプロペラがキャピテーションを起こしている。取り付けたときにも気がついていたのだが、取りつけ位置がこの補機の脚に合っていなく、揺れる海面をプロペラが出たり入ったりしている。まったくどういうセッティングをしているんだと腹を立ててもどうしようもない。思いっきり艇の後ろに乗り出すようにして座り、できるだけプロペラが長く水を掴んでいられるようにして風上向けて艇を動かす。船位を改めて見てみると、八景島へ向かうよりはベイサイドに戻った方が遙かに近い。が、脚の長さが足らず水面を出たり入ったりするプロペラがキャピテーションを起こし、ピッチングの激しい向かい波をうまく走れない。そこで船首を南におとす。体をスターンのガンネルから後ろにはみだすハングオーバーをさせて。手はなんとか船外機のスロットルグリップを掴んだ状態。追い波の中、船首を持ち上げ気味でなんとか走ってくれる。だんだんとその船と波の波長にあわせるこつのようなものを体得してきて、楽しくはないがいくらか楽になった。そうやって1時間、いったんおき出しをした船でなんとか定置網をかわし、八景島の裏手の水路に潜り込むことができた。ブランケとなり、さほどハングオーバーしなくてもなんとか安定して走るようになる。そうやって桟橋にもやいを取ったときには、本当に体中の力が抜ける思いだった。
近い距離といっても、いったん海に出てしまえば自力で解決しなければならない海。ちょっとした気のゆるみがとんでもないこととなる。それ以来、私は近い遠いは関係無く、たとえ同じマリーナ内を給油に行くときでさえ、とにかくもやいを桟橋から解くということで、後戻りはできない緊張感を高まらせるようにしている。
そう、それを勉強できた、怖さも満喫し、体力の限りを感じたが、とても貴重な体験となった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA