怖い話 第九話


怖い話 第九話メンテナンスされていない船は怖い。風や波も怖い。だが、たしかにレアケースとはいえるがもっと怖いことは沢山ある。そんなひとつの例を私の体験からご紹介しよう。

今から5、6年前の話しになるだろうか、年の瀬迫った12月、九州の知り合いから電話があった。彼の友達が石垣島にダイビングボートを所有しているのだが、それを年内に九州へ運びたいとのこと。詳しく聞くと、地元の若い者を雇ってそのボートの管理を任せていたのだが、あまりにもいいかげんなので自分のホームポートである九州・熊本県の八代に船をもちかえりたいという。船は伊勢の造船所で作ったというワンオフ艇で、漁船タイプをダイビングボートとして建造したもの。ヤンマー450馬力のインボードエンジン1基がけ。いいかげんな管理という話しがその船をどんな状態にしているのか見えないだけに不安。ましてや沖縄-九州、冬のこの時期は季節風が吹き荒れてい、そう簡単な廻航ではないだろう。悩んだのだがオーナーがその廻航に同行するとのこと、やむなく請け負うことにした。となると、忙しい年末を間近に控え、とにかく急ごうと空路石垣島へ、長年の付き合いで信頼のおけるエンジニアと二人で飛ぶ。太平洋側を飛ぶ機上の小さい窓からはごきげんな晴天が覗けた。だが島に近づくにつれ、海上を覆うように重く立ちこめた雲が増え、時折見える海面には白いウサギが不規則なうねりとともに飛び跳ねている。こんな海の様子では簡単には走らせてくれない。石垣島に降り立つと案の定風が強く覚悟を決めながらとにかくその足で船に向かった。

外見は40フィートほどの船齢10年くらいの船。荒れた果てた状態でたたずむ船がもの悲しい。エンジニアが機関室の点検に入ると同時に、私は全体的な確認をしてまわる。艫にあるデッキハッチから船底を覗くとビルジが少しある程度で、これはまー常識的だと思えた。ところが、船内にはいると鼻を刺すようなかび臭さで、バウのコンパートメントなどは一歩室内の床を踏んだとたんに床の中に足がめり込んだ。船底に溜まったビルジが長期間滞り床を腐らせてしまっている。匂いも相当なものだ。船を慈しむ愛情のかけらもなかったのだろう。オーナーの放っておけない気持ちがよくわかった。機関室から出てきたエンジニアも、語るまでもなく曇った顔をしている。九州まで約800マイルもある長い航海、波にもてあそばれても耐えられるのか、基本的な構造を2人で祈りながら確かめ、日が暮れてから近くのホテルに投宿した。
冬の沖縄は年末でも暖かく、島や珊瑚に囲まれた平水の海は気にならないのだが、それが外海に出たとたん、季節風である北よりの強風とうねりにもてあそばれる。天気予報では波高5mと言っている。通常では完璧に外洋には出港しない。この冬の季節、大きなついたてとなる陸地がないぶん風がえんえんと続く。せめて3mの波、本州沿岸ではそれでも赤旗ものだが、息をするように波高が落ちるタイミングを選んで出港するしかない。さきほど見た気圧配置では冬型の西高東低、2~3日は波風ともに収まらないだろう。その間にできるだけ船の整備を行おうと相談し、多少の後悔とともにベッドに潜りこんだ。
翌朝、窓からは南国特有のエメラルドグリーンの美しい海が広がっている。が、その表面は白い髭をこれでもかというほど蓄えて、我々の出港を拒んでいる。石垣島でいつもお世話になる八重島マリンの石井社長にもお願いし、エンジンメンテナンスを進める。私はスタンチューブやラダーなど船の貫通部の点検を行い、外洋でまさかの事故が無いよう調べあげる。地元の漁師さんなどからもいつもの肩フリで海の情報をもらう。そうやって2日を過ごしできる整備がほぼ終了したころ、新たな気象情報で西高東低がつかの間ほころび、波も3mに落ちるという予報を得た。このチャンスを逃すと年内に本土に戻ることは難しくなる。エンジニアとも相談し、さっそくオーナーに連絡を取って出港の段取りをつけた。

出港は翌早朝5時。
まだ暗い中で暖機運転をしてスタンバイしていると、前夜九州から飛んできてくれたオーナーが乗り込んできた。風は北東が8mくらい、とにかくこの季節風の合間に出港しないと当分足止めを食らってしまう。覚悟を決めて時間通りに出港。今日はまず90マイル先の宮古島を目指す。操舵は浴び続けるだろう風波のしぶきを考えロアーステーションで取っていく。据え付けてある航海計器は何故か12マイルレンジのレーダーのみ。GPSはハンディータイプのものを持ってきたのでそれを確認しながら航行していく。速力は17ノット。北東の風で島のブランケットになった名倉湾沖を気持ち良く走り、石垣島の最西端の御神崎にさしかかるとうねりと風が舞ってくる。船体は案外頑丈にできているらしく、波に突っ込んでいってしまうがビビリ音などはなく、波をうまくあわせて走れば行けると確信し針路を石垣島の再北端、平久保崎に向けた。平久保崎まではさほど苦労もせずに波にあわせて進んでいったのだが、崎を越えたとたん、さすがに大きなうねりが周期的にやってきて船首を風下に振ろうとする。舵を握りしめ、神経を集中し波当たりを予想してあて舵をきり、波をひとつひとつ乗り越えていく。ときたま船の舳先を乗り越えた何トンともいえる海水の塊がウインドシールドを駆け上りひやっとさせられる。針路は多良間島と水納島の間に挟まれたやや平穏になるはずの水路を目指す。4時間あまり、波を乗り越えて水路に入ると水納島のブランケットでやっと一息いれることができた。地獄のなかの天国。今の内に昼飯だ。左に見える小さな水納島は家族が1世帯だけ住み、とても幸せに暮らしていると聞いたなと思いをはせながら食事をむさぼる。エンジニアからも問題なしとの点検報告があった。ホッとしたブランケを過ぎ気を引き締め直して、波との戦いを繰り広げながら宮古島を目指し黙々と走った。そうやって17:00頃、まだ日のあるうちになんとか宮古島へのアプローチ。予定では宮古島の平良港に入港を考えていたが、ここからでは30分くらい余計にかかってしまう。意を決してまだ入港したことがない池間島に入港することにした。宮古島とは橋で陸続きとなっている池間島の港口は、珊瑚礁に囲まれとても浅いと聞いていた。エンジニアに船首に立ってもらい、高い透明度ですぐそこに見える珊瑚の中を確認しながらなんとか入港。休む間もなく港の中を走り回りガソリンスタンドを探しだし船への給油をお願いする。石垣島からここ宮古島までの消費量を見て、ここから沖縄まで180マイルの走りを想定してドラム缶を2本調達した。点検をすませたエンジニアからの問題ないよの一言、安心して宮古のおいしいステーキをオーナーのご馳走で味わった。
食事を済ませ、気象情報をとると明日も今日と同じような日になりそうなので、翌早朝の出港を決断してかびくさい船内に戻って体を休めた。

5時にスタンバイし、すぐに出港。
池間島をかわすと、昨日同様のアゲインストとなる北東の風が吹いているが、心なしか昨日よりは走りやすい。速力は15ノットをキープし波を乗り越えていける。ふと気がつくと海上保安庁の船が猛スピードで追い抜いていく。船内の操船では後方視界がキャビンに狭まれあまりよく見えず、いきなり横を抜いていったので正直少し驚いた。あのスピードならば6時間くらいで那覇に入港できるんだろうなと漠然と考えながら舵を取る。今日の航海では昨日のように点在する島影などなく終日強暴な波に立ち向かっていかなければならない。さらに途中、燃料タンクにドラム缶からの補給もしてやらなければならない。そのタイミングなどを考えながら、舵と時にガバナーを使って波との戦いを続けていく。ありがたいことに6気筒のエンジン音に不調は無い。操船は真正面に波を受けると走りが遅くなるので、少し角度をつけて波をさばいていく。時に掘れるうねりに遭遇したときに、ガバナーを瞬時緩めて勢いを殺して船首を波間に叩かないようにランディングさせてやる。昼を過ぎた頃、余裕のあるうちに補給をしようということとなり、速度を落としてエンジニアと二人でドラム缶からタンクに燃料を補給してやる。そうしながら、今までの航跡を考えこのまま那覇に入ることが無理だと判断。少し手前の久米島に向かう。波を乗り越え、日暮れにさしかかる18:00頃、なんとか久米島に入港できた。翌日もこの季節特有のどんよりした曇りの天気、風波ともにあいかわらず向かいのまま。慶良間列島を左に見て那覇港に向かう。続く島々がわずかに衝立になってくれ少し走りやすい。昼前に那覇港に入港。給油をしていると、それまで黙っていたオーナーがさすがに廻航の疲れが出たのか今日は那覇で一泊しないとの休戦宣言。気になる気象情報を得ると、あまり気圧の変化もないようなのではやる気持ちを押さえ骨休みをとることにした。

翌朝、気分も新たに出港。
那覇港を後に、17ノットの速力で舵を取る。今日の予定は那覇から奄美大島の名瀬港までの180マイル。途中、伊江島の水道をすぎたあたりから、それまでとは違った破壊力を持つ波になったが、沖永良部、徳之島などの陸地がすぐそこに見えるような風のブランケットをたどりながら奄美大島との海峡にたどり着いた。この徳之島と奄美大島との間は潮が速く、風の具合によっては三角波が航海を阻む。苦労しながらなんとか渡りきり、暗くなって名瀬港にアプローチ。黒い波間に見え隠れする梵論瀬崎の灯台の光を頼りに、名瀬の入港路を見失わないよう注意して慎重に進む。このあたりは珊瑚礁に本船が乗り上げる事故が多いところ。慎重の上に慎重を期す。やっとの思いで19:00頃入港。2本のドラム缶も含めて満タンにしてもらい、やっと肩の力を抜く。

毎日の繰り返し、5:00スタンバイの6:00出港。
今日はいよいよ最大の難所、トカラ列島の島々を経由する。名瀬から屋久島までは約150マイル。その途中はトカラ列島の小さい島々が点々と続いてい、その点在する島の周りには反転流などの早い潮の流れがあり、風波と混ざり合ってボートにはとても走りにくい難所となる。外洋の大きなうねり、そして潮が生み出す三角波、一時も注意を怠らず船を操舵し臨機応変に対応していかなければならない。波がまったく想定もできずストレスが重なる。乗っているオーナーやエンジニア達も自分の体をホールドするのに、あらかじめ構えられないので、いきなりショックとともに襲う船の揺れに成すすべも無く翻弄されてしまう。そんな海をとにかく耐えて耐えて耐えまくって、全員がほうほうの体で真っ暗闇の屋久島、一湊港に入港した。給油をした油屋さんのおやじさんが、なーんもないところだからと言いながら名産の芋焼酎を二本も差し入れしてくれた。近くにいた漁師のおやじさんも、今日は大変だったろうと自分で漁をした大きな鯖をわけてくれ、思わぬ暖かい気持ちにふれる。焼酎で体を温め、人の温かさを感じ、ついさっきまでの弱音はどこへやら、こんな廻航はやっぱりいいものだとしみじみ味わう。

翌朝は、屋久島を出て、鹿児島の西側野間崎を経由して陸地に沿って北上、狭い黒之瀬戸を越えて、九州と天草諸島に囲まれた八代海にはいって八代までいく約140マイルのいわば最終レグだ。できればその日のうちに東京に向かう飛行機に乗りたい。
朝未明、真っ暗な内に温かかった一湊港を出港した。大隅海峡はあいかわらずの風波で速力は15ノットで航行。真っ暗で見えない海、いきなり目の前に白い波頭がたち、ワンテンポずれてしまう操舵のタイミングを知らせる。何故か搭載されているレーダーに目がとまり、ふと、真後ろに光る点に気がついた。これは12マイルレンジ。ひょいと後ろを振り返り、明かりを消した暗いキャビン内の入り口のガラス戸をすかしてみると、すぐそこに両舷灯と白いマスト灯のようなものが見える。信じられない気持ちで良く見ると、大きい白い波しぶきが間近に見え、これってまさかの本船が立てる白波、しかもまっしぐらにこちらに向かってくる。やばい、数秒後には本船に後ろから乗り上げられてしまう。相手の船は少なくとも1万トンクラスのフェリーのようで、こちらの船にぶつかったところで虫を踏み潰す感覚も無いだろう。速力はおそらく23ノットは出ている。ガバナーをフルに開け、正面から襲ってくる波の衝撃を気にする余裕もなく右に転舵した。
ワッチは何を見ているんだ!こっちに気づけ!!だが声を張り上げてみても相手に聞こえるはずも無く心の叫びにしかならない。強烈なアンダーステアをくらいながら、腕力にものをいわせ、全体重をかけてステアリングを切っていく。波に振り落とされながらもじわじわと回頭していく。まだだ、まだ本船のビーム幅から逃れていない。船は、回頭するとともに追い波となりはじめ、ブローチングしようという挙動を見せる。こんなときにブローチングは許されない。少しのロスが命取りとなる。もう後ろに迫る本船を見ていられない。ステアリングで当て舵をも微妙に取りながら、なんとか本船のビーム幅から抜け出ようと必死になる自分の腕に震えがくる。頑張れ、もう少しだ。耐えろ、耐えてくれと全員が祈る無言の時がゆっくりと過ぎる。
長く感じた沈黙の後、エンジニアが、かわした!との一言で、やっと右横をチラッと見やる。確かに本船の黒い横腹が見えた。やった。なんとか離脱できた。
相手船はまったくこちらの存在に気がつかなかったのだろう。何事もないように自針路を保持したまままっすぐに、我々にシャリシャリと不気味なエンジンを残しながら走りすぎていく。一瞬の出来事だったのだろうが、全身の毛穴から冷たい汗が吹き出るのを感じるくらい怖い時間だった。しばらくして、東の空がしらじらとしてき、さっきの出来事がまるで悪夢での出来事だったかのように、眩しい光が船内に座る我々の笑顔を照らす。

鹿児島防の岬に近寄ってきたために風波ともにしだいに収まり、大分楽な舵取りができるようになった。薩摩富士がくっきりきれいに見て取れる。黒之瀬戸を行くと、今までの航海がまるで嘘だったかのように信じられないほどべたなぎ。天気も快晴となり、我々の苦労を祝福してくれるかのように気持ち良く船は滑走してくれる。八代海を渡りきり無事に目的地のマリーナにたどり着いた。
さて、これが今回の怖い話し。冬の沖縄、どんよりとした雲の下、その風波もたしかに怖い。だが、つい先だっても北海道沖で漁船が砂利運搬船に衝突されて沈んでしまい、犠牲者を出したニュースがあったが、まさしくあんな事故。それはレアケースと言えどありうることで、一旦海に出れば気を緩めてはならないという重要な教訓を私に再確認させてくれた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA