怖い話 第十話


怖い話 第十話今回の「本当にあった海の怖い話」は、読者の皆さんが実体験としてあり得ることではない。むしろ「プロジェクトX」向けの話かもしれない。遙か古、日本では鎌倉幕府の頃にジャンク船と日本の磯船が相見えた元寇の戦い、はるばる海を越えたジャンク船。それを博物館に持ってこようというプロジェクトに参加したときの話だが、古の船乗り達のロマン溢れる漢を垣間見るような航海を味わった。

青森に住む友人から海の遊びとは縁がないような紳士を紹介された。東北の銀行のある頭取さんが、船を集めて博物館を作ってしまった。その目玉展示物として元寇が乗った同型船をマカオに発注。それはいわば中国のジャンク船なのだが、竣工に及んでどうやって青森に持ってこようかとのことだった。夢をかけたとても面白そうな話。ジャンク船といえど日本製のエンジンが積んであり機走できる。なんとかしましょーと彼らの期待に応えた。早速翌日から船積みの準備、船台の問題、マカオから香港までの海上輸送、香港から日本への船便、クレーン船の手配などを行う。

3月10日、空路成田を発ち、香港に一泊しマカオに入った。
車で数時間の大きな港、そこはジャンク船だらけ。どこにあるのか尋ねると、真新しいジャンク船は盗難や損傷を恐れ、警戒船にともなわれて沖止めをしているという。さっそくその船へ。洋上に浮かぶ船は曲線美をもった優雅な姿で、近くで見ると60フィートくらいは優にある3本マストの美しい木造船。タラップを昇ると真新しい油の匂いが鼻をくすぐる。船底はしっかりと目止めがされ、マルコポーロが東方見聞録に記載したような頑丈な艇体。日本製の380馬力のディーゼルエンジンが搭載されている。
輸送の段取りは、マカオから曳航し香港でコンテナ船に積載。横浜で下ろし通関やら手続きを済ませ、青森まで私が自走させる。
銀行員のTさんと造船所の棟梁と打ち合わせ。私からもクレーンで本船に載せるため大きなマスト2本は取り外すよう契約条項に付加、モーマンタイ、時に英語でノープロブレムとにこやかに言っている棟梁に念を押してその日の内にマカオを後にした。香港では通関などスムースに行くよう数日費やし一旦帰国。日本に戻ってからは船積みする際の船台を鉄工所に依頼。3月23日、出来上がった船台や工具などと一緒に砂袋を30個一緒にコンテナにいれてもらい、一足早く香港へと出荷した。
私はTさんとともに、4月1日再び空路香港へ。
翌2日マカオのジャンク船へと向かう。立ち並ぶ船をすり抜けて沖を見ると、3本マストのままの姿で浮かんでいる。あの棟梁は何度もモーマンタイを連発していたのに、やっていないではないか。これでは本船に載せられない。棟梁をすぐに呼ぶように話をしたが、モーマンタイ棟梁は雲隠れ。なすすべもなく香港まで曳航して戻る。
翌3日、コンテナ船の日本人船長と打ち合わせ。2月の航海では冬の東シナ海が荒れコンテナを3つ海に落としたという。積み付け責任者である一等航海士、チョフサーを交え入念に打ち合わせを行う。知り合いの船会社だけに、私が貨物船船長だったことを二人とも知っており、細かいことまで私に協力してくれる。午後、クレーン船の船長に相談をする。やっとのことで一本だけマストを抜くことができ、どたばたしながらも夕方の6時過ぎ、わざわざ日本から持ってきた砂袋を船台の上に置く。砂袋を船台と船の間に挟み込めば、砂袋が船体の木部を受け止めてくれ、船を傷めることも本船の揺れにずれる事も防げる。いよいよ船積み。ジャンク船を吊り下げたクレーン船はわずかな波で動いてしまうので、微妙な船台への据え付けがうまくできるのかどきどきしながら見守る。細かい指示と丁寧な作業で船は無事収まりほっとする。そしてラッシング、積み付けを終えたのが23時だった。

翌5日、我々はコンテナ船より一足先に帰国。
本船は順調な航海をし、予定どおり8日に横浜・大黒ふ頭に到着した。
その美しいジャンク船が日本の青い空の下に映える。用意されていたワイヤーでジャンク船を吊り上げ初めて日本の海へ。私はクレーン船についているチャカと呼ばれる小型船でジャンク船へと乗り移り撫でる様に無事を確認。そのまま用意した船に曳航され近くの横浜ベイサイドマリーナに着桟した。この当時、中国からの難民船の拿捕があいついでいた頃で、横浜ベイサイドマリーナではジャンク船が入ってきたことに周りの人々はびっくりしたようだ。通関、船検手続き、そして航海計器などの艤装を行う。その合間に、青森からお越しいただいた頭取をはじめ雑誌社の取材などを行い、いよいよ青森にむけて16日に出港することとなった。

98年4月16日0850時。曇り。
横浜ベイサイドマリーナを出港。乗員は私といつもの機関長の2人。
木製の重い船、海水を押し分け進む速力は1500rpmで8ノット。すべてが重鈍でワンテンポもツーテンポも反応が遅れるが、その舳先で波を断ち割り進む姿は重くすがすがしい。ヘルムを取る舵台は最後尾にあり、前方は遙か遠くの海面しか見られない。のんびりと東京湾を南下する。すれ違う船には、好奇心丸出しで近づいてくる船もあってなかなか楽しい。
1145時、千葉県の最西端、洲崎沖をかわす。左に見える野島を目指していくとどうも海が荒れている様子だ。1245時。野島崎、東よりの風5m、波高2.5mといったところか。向かいの風波の中を進んでいくが行き足が足りない。その上、大きな舵輪をよいしょと力ずくでまわしてもそれに船が応えてくれるのにものすごく時間がかかる。やっと回り出したなというときにはすでに波は過ぎ去っていて、下手をするとそのまま波に対して横向きにまわっていってしまう。波に合わせて舵を切るよりは、まっすぐ走っている方が無難だ。1400時、東の風が強くなった。大きな木のマストが風波に煽られ、どうもリギンが伸びてぎしぎし言うようになった。近辺の寄港地を探す。日暮れの時間を考え、このスピードで勝浦は遠いので千倉に入れることにする。
1440時、千倉港。給油を済ませリギンの締め直しをして今晩の泊地とした。

4月17日
沖合はあいかわらず東の風6m、波高2mといったところ。0610時、千倉出港。右手正面からくる風波に耐えて進む。ローリングとピッチングが激しい。0850時、なんとか勝浦灯台沖を通過。昨日直したリギンが早くも伸びてしまったのかマストが揺れだしている。私がヘルムを取るすぐ後ろにも木のマストがあるのだが、船が揺れるとその重いマストがこちらに倒れるように動きだす。一番大きな真ん中のマストも暴れだし、船が身震いするような衝撃が伝わる。それぞれのリギンを機関長が締め直そうとするのだが、揺れに身を任せながらの作業なんてできるものではない。近くの大原港は東よりに港口があるので、引き返すような形になり追い波となることに不安を覚えたがしかたがない。意を決して回頭、後ろから押してくる波の力に機関のパワーが足りない。艫が押されるようにブローチングを起こし横向きになろうとするのを整えるだけで必死。重い舵輪に力を込めて押さえ込み、必死になって船首を港口に向ける。危機感を感じた機関長が、丸フェンダーをよろめきながら持ち船首に走る。船はサージング状態となっていて、相手は岸壁のテトラポット、小さなフェンダーごときでは太刀打ちできないが、せめてと思った行動だろう。その必死な気持ちに感謝はするが危険だ。後ろに戻ってくるように怒鳴る。後ろから強烈な波のパワー、目の前に迫るテトラポット、負けじと舵をまわし、エンジンの出力でタイミングを計り、右からはねられる一瞬に出力を目一杯にして港口に突っ込む。左岸壁すれすれに寄った船は、運良くテトラに押し戻された波に乗るように港の中に飛び込んだ。港の中は平穏そのもの。態勢を立て直し、思わず機関長と二人で顔を見合わせた。
1030時着岸。まわりの漁師さんたちが怪訝そうな顔つきでこちらを見ている。機関長と二人で緩んだマストのリギンを確認しながら締め直していると、警察官がやってきて職務質問を受ける。かなり細かいことまで説明をし、渋々と言った感じで警察官が引き上げていく。やはり最近の難民船の事件でこういうふうに見られるんだとつくづく感じた。

18日0515時出港。
昨日のうねりは残っているが、風はさほどでもない。沖は風が心配なので岸よりを航行、屏風ヶ浦にたどり着く。犬吠埼の手前には暗岩があるのでしかたなく沖回りをして0940時、犬吠埼沖を通過。ここは潮がぶつかり合う海の難所。掘れた三角波が行く手にそびえている。ローリングとピッチングの中でマストが暴れ出し、銚子港に入って再度調整を決意。昨日の教訓をふまえながら1030時、やっと銚子港に入港できた。いつもの岸壁で給油をし、近くに買い出しに行くと人々がジャンク船の話題でいっぱいになっている。嫌な感じだ。

19日、天気は安定、チャンスだ。まだ暗い0440時に出港。二日間の遅れを取り戻すため夜も走る。波崎沖の網に気をつけながらゆっくりと航行。そのうち空がしらみ始め太陽が水平線から昇る。壮大な美しい風景に見とれながら順調に航海をしていくと、パタパタとヘリコプターの音が聞こえる。見上げるとそのうちパイロットの顔が見えるくらいに来た。日の丸の旗を振るとしばらく後に飛び去っていった。我々も知らぬ間に有名人になってしまったようだ。
0900時、那珂湊沖10マイル。向かいの風4m。1500rpm8ノットでゆっくり北上。1400時、塩屋崎4マイル沖通過。発電所近くまで行くと日も傾き、引き波に夜光虫が光り幻想的な情景を演出、すばらしい自然の饗宴を受ける。空は雲の合間から満天の星空。2200時金華山を越えひた走る。

20日0540時。給油のためにリアス式海岸の奥にある釜石港に入る。給油所が開くまで仮眠を取り、1280リッターの給油をし0850時に出港。支店の人たちにジャンク船を披露して欲しいと頼まれていたので久慈港を目指す。1130時、トドヶ崎沖通過、1615時に久慈入港。着岸後、支店長さんからご苦労さまとのお声掛けをいただき、ホッとする。だが、さすがに疲れもあって点検を済ませて早々と寝袋に潜り込んだ。

21日、0530時出港。記者発表会をしたいとのことからわずか40マイル先の八戸港を目指す。気になるのは天候で、そろそろ崩れそうだとの予報。1000時頃、八木港を過ぎた辺りから海はまた凶暴になっていく。岸沿いは2マイル離さないと定置網に引っかかるおそれがあるので、波が高くなるのを覚悟して沖に出る。案の定、大きなうねりが押しよせ船首が波に突き刺さり、船首の上にのっかった何トンかの青い海水の固まりがものすごい力でデッキを走り抜けていく。船乗りがおそれる青波という奴だ。パワーがあればごまかしようがあるのだがどうしようもない。昔の船乗りはやはりとんでもない男達だったんだなと思いながら、頭に冷たい潮をかぶりながらもとにかく耐える。船の揺れに合わせてマストがダーンと暴れ出してきた。そんなとき、機関長からビルジがすごいぞと顔色を変えて報告にきた。打ち込む波が船底に溜まったのだ。垢汲みの仕事は機関長に任せ、私は舵輪を押さえつけて走らせるのが精一杯。お互い自分のするべき事をして耐えるしかない。航行速力は平均で3~4ノット、しかも4月の東北の海は切れそうなくらい冷たい。舵輪をもつ指の感覚が無く、手首も使って押さえつける。小一時間も孤軍奮闘していると、機関長がやっとビルジの増えるのが止まってきたと報告。自船位置を確認しながら後もう少し、もう少しと忍の一字で八戸港を目指した。1500時過ぎ、やっと鮫角埼を左に0.5マイルで通過、今度は船尾斜め後ろからの追い波を受けながら八戸港の防波堤を目指す。効かないあて舵をスロットルでカバーし波と一緒になってジャンク船が港になだれ込み体から力が抜ける。目指す岸壁は取材などの黒山の人だかり、だが、そこには風のため付けられないと連絡を受け、八戸橋の奥に入港することとなり取材は中止となった。差し出された暖かいコーヒーが心まで暖かさを満たしてくれる。サウナにゆっくりとはいり体を暖め、出迎えの方々との酒宴でつくづく充実感を味わう。これがあるから辛い廻航業、止められないのだ。

22日、0600時出港。今日は最後の寄港地、大間に向かう。うねりは残るものの風は無く、速力8ノットをキープしてスムースに航行。1200時、矢尻埼沖通過、1525時弁天島沖通過、空気は冷たいが快適。1600時、大間入港。
そして4月23日、青森までの最終航海、0530に出港。下北半島国定公園を左に見ながら平舘海峡を南下し、1110時、無事に青森港の漁船博物館専用桟橋に付けて長い航海を終了した。

フビライ・ハンの元寇は「文永の役」や「弘安の役」など本で読んでいたが、実際に使用したジャンク船とはどういうものか知らなかった。古から受け継がれ、現代でも走り回っているジャンク船。後に大航海者たるヨーロッパの船のルーツにもなる素晴らしい構造を持った船。その船を駆り、はるばる元寇としてやってきた征服者達、それを迎え撃ち小さい平船で戦った日本の祖先達、そのストーリーを博物館は展示しているという。だが私達は航行して初めて彼ら漢達の海の冒険を垣間見た。もちろんエンジンをはじめとした文明の機器を利用してのことだが、その海の怖さを凌いだ海の漢達、その忍耐と勇気を私たちも顧みたい。


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