怖い話 第七話

無寄港の長距離航海、ボートでは燃料補給の問題もあってなかなかできない。足は遅いが風頼りのヨットでは燃料を気にせずに確実に長距離航海ができる。だが、その長距離航海、航海上のこと、儀十手黄な粉とはもとより狭い船の中で過ごす人間関係などが凝縮され、ボートにも生かせる教訓がある。
今回は、そのヨットで横浜からフィリピンまで行った長距離航海でのことを紹介する。

今回の依頼は、50フィートのヨットを遠くフィリピンに運んでくれというものだった。
時期は4月、アゲインストの西風が吹き荒れる頃ではあるが、その合間を見て横浜から日本列島を島伝いに補給をしながら沖縄まで南下し、そこから外洋に乗り出して夜間航行を繰り返し、航海の難所バシー海峡を越えてフィリピンへと走る。海賊の出没もある。何が起きるか判らない。気構えだけは慎重になる。
廻航要員は当社の元気の良い若手スタッフ、通称ハナ。彼は船長の経験も豊富なので安心して任せられる。そして今回はまったく知らないクルー2人が同行。オーナーの依頼で訓練を兼ね乗り合わせるクルー2人を交えた都合4人。約10日間、逃げ場の無い狭い船の上で一緒に過ごす仲間となる。いや仲間になるといいのだが、狭い船の上で知らない人間同士、ちょっとしたことで反目しあうとやっかいなのだが、こればかりは出港前に心配をしてもはじまらない。
出港前日、ハナに命じて食料を中心にした買い出し。といっても手当たり次第に買い込むのではない。凪いでいる時には手の混んだおいしいものを作り、少し時化てきたらば簡単だが食欲の沸くもの。大時化の時には揺れるギャレーに籠もってというわけにはいかないので、体を温め元気が沸く梅昆布茶やスープなどを用意する。港についたらその土地の新鮮な食材を調達すればよい。いつも何が余って、何がもっとあったら良かったという経験。必要なものを必要なだけシミュレーションを頭の中で繰り返しながら購入する。

4月16日(木)午後
横浜ベイサイドに係留してある船に集合する。
シーズンオフで平日のマリーナはガランとしている。当たり前のことだがこれから大航海をするというのに見送りの人々なんてまったくいない。寂しいものだ。船に自分の荷物を載せ、出港前の最終点検をこなす。一緒に同行するクルー二人がやってきた。約束の時間はとうにすぎているのに、謝りもせずに当たり前のように乗りこんできた。これではオーナーから言われている訓練生というよりは、オーナー代行のような態度。彼らは当社の若手社員ハナと同世代のようだ。狭い船の上でぶつかりあいがなければ良いがと先が思いやられる。

同日1620、横浜ベイサイドマリーナ出港。
もやいを桟橋から切る。彼らもさすがに手馴れた様子でもやいをさばいている。少し安心した。さほど風が無い中、機走して東京湾を縦断。
燃料を補給するために途中三崎に寄港。剣崎をかわし、しばらくそのまま沖だしに針路を取り、沖に張り出した定置網をかわしそうなところで、城ヶ島に渡っている三崎大橋目指してすすむ。右に聳え立つ毘沙門天の崖。デッドスローで三崎と城ヶ島を繋ぐ大橋の下をくぐろうとしたとき、ハナがふと漏らす
「このマスト、橋くぐれるかな」
はっと、仰ぎ見るとマストが天に突き立つように高く聳え立ち、いつもは高く感じる橋が何やら低い。あわててゴーアスターンをかけ橋ぎりぎり手前で止める。背中には冷や汗。バウにハナを走らせ、私はスターンから身を乗り出して見ると、なんとかぎりぎりだが橋桁を交わせそうだ。
バウのハナは笑ってこちらを見ている。クルー全員が見守る中、クラッチを繋いだり切ったりしておそるおそる橋にさしかかると、ぎりぎりかわして通り過ぎていく。
いつもここはボートで行き来をしているので、橋脚のあたりの浅瀬は気にするものの、すっかりマスト高のことを忘れていた。潮が満ちていたら橋桁に当たっていたかもしれない。
それを考えるとツーンと鼻先に刺激があった。
三崎では、船内タンクに500リットル、さらにデッキの予備タンクに400リットルを補給し、西に沈む夕日を追いかけてさっさと出港。ここからは、燃料の様子を見ながらナイトクルージングをしながらできるだけ風を拾って走る。風は南より5mくらい、スターボードタックのクローズドホールドで伊豆の東端、爪木碕を交わせるかどうかだ。早めの夕食を取り、ナイトウワッチに備える。

4月17日(木)17:40、尾鷲港。
給油のため、尾鷲港に入港。230リッター給油して生鮮食品の買出し。昨晩からの航海は穏やかなもので、買い込んだ生鮮食品は大方4人で食べてしまっていた。小さな港町を徘徊することは、狭い船の上ではなまる体の運動にもちょうど良い。ついでに、風呂探し。真夏であれば通りすがりの雨などでシャワー代わりに体を洗えるが、船の上では汗を洗い流すことができないので、こういうときにしっかり風呂に入っておく。ただ、時間は無い。クルーには出港予定時間を2時間後に指定してある。
からすの行水だが、さっぱりして船に戻ると、手際の良いハナがスーパーで仕入れたのか秋刀魚の押し寿司に、茗荷のおすましを作って待っていてくれた。4人でそれを掻き込み、1940、予定通り尾鷲を後にする。

4月19日(土)0600
夜中のウオッチを終え海から登る朝日を迎えた。
風は微風。メインだけをあげヒールして機帆走していると、計算ではまだ燃料があるはずなのにエンジンが息をしだす。どうもガスのリターンが両舷のタンクに順当に行っていないのか、片舷のタンクだけが空に近い状態になっているようだ。タックを変えてみようかと思っている矢先に、エアーを吸ったエンジンがストップしてしまった。
エアー抜きをしなくてはならない。本来ならば、当直クルーに依頼するところだが、どうも彼には任せられない。仕方無く、当直を終えてバースで眠りこけているハナを起こす。
ハナは眠い目を擦りながらしぶしぶ起きてきて、エンジンに絡んだエアー抜きをしてもらい、タックを変えて右舷から左舷へと燃料を移させる。
作業を終えたハナは、そそくさとバースに潜りこみ眠りについたが、私と一緒に当直しているクルーは当たり前のような顔をしている。まずいなという思いが頭をよぎる。

同日1400、宮崎県の油津に入港。
450リットルの給油を済ませ、タッチアンドゴーで出港と思いきや、メインセールのタックに5cmくらいのほころびをハナが発見。このまま出港して帆走すれば、その綻びは広がりメインセールが裂けてしまう。ヨットでセールの綻びは命取り、なんとか修理をしなくては。セール屋さんがいればいいのだが、このような地方の漁港ではありえないだろう。せめてテント屋さんを探したいのだが、どうすればいいのか。するとハナが携帯電話を相手に何やらうつむいていると思ったら、近くにテント屋さんがあるという。iモードのタウンページで調べたと言う。本当に役に立つやつだ。
すぐに携帯電話で修理を依頼。
我々は、近くのレストランで船では満足に食べられない肉料理を頬張る。みんなここまで4日間の夜通し航海で少し疲れも出ているようなので、今晩はゆっくり寝て翌早朝に出港しようということになった。

4月20日(日)0415油津出港。
南西の順風。ヨットは久しぶりにフルメイン、フルジェノアで9ノット、快調に飛ばす。やはりヨットはエンジンを切って、風を切る音に身を預けて走ってこそ爽快感がある。午前中一杯、ヒールした船を楽しみながら操っていたが、午後になるとうねりが高くなり次第にその波長が短くなってきた。50フィートのヨットがその短い波長にバウを叩く。そうたいした海象とは言えないがお客様の大事なヨット、壊してしまっては遅い。1600屋久島に入港。天候の回復を待つ。

交代で屋久島の散策を許す。と言ってもいつ出港するか読めない。1時間ずつの散策だ。ハナはその散策で土産物屋さんで絵葉書を買ってきた。船のウオッチ、と言っても岸壁につけて何にもすることない船上で絵葉書を書こうというのだろう。こういう楽しみも廻航にはある。いいことだ。夜揃ってレストランで食事。フランス料理ではシビルイユと言って牛肉よりも数段高級といわれる鹿肉の刺身に舌鼓を打つ。ステーキなどはままあるが、刺身は初めて、なるほど、臭みも無く甘味があって牛肉よりは美味いと感じた。
夕食後、気になる海象を通り掛かりの漁師に伺い、夜半の出港とする。早々とバースに潜りこみ、揺れないボンクでの快眠をむさぼる。

4月21日(月)0330屋久島出港。
暗い海に乗り出す。風、波ともに昼よりは収まり、のんびりとクルージング。
朝日とともに、まわりの海を見ると黒潮の影響か、水色が藍色混じりとなっている。それまでも、ケンケンをトランサムから流したりしていた。ここまではその積めたそうな水色が物語っていたのか、なんのヒットもなかったがこの水色で期待が持てそう。
ウオッチの非番の時に、スターンから竿をたれてルアーを流しているとやっとヒット。
シイラだ。あのおでこが飛び出て垂直な顔になんとも憎めない口を持つ鮮やかなブルーの魚体。そのごっつい姿からか日本ではあまり重宝されていないが、アメリカではマヒマヒと呼ばれてキッチンを喜ばせている魚だ。淡白なしろみはステーキにしたりフライにしたりするととてもおいしく、この船ではハナがうまく料理をしてくれるだろう。
引きの強いやりとりを楽しんで取りこむ。すぐに血抜きをしておく。ハナが今晩の夕食に楽しみながら料理をしてくれる。次にはやっときた、かつお。ところがハナがかつおを嫌がっている。料理をするのに、かつおは身に虫がいるので料理も火を使ったりかなり面倒なものとなるからだろう。
その晩、と言ってもまだ日のある明るいうちだが船上の食事は久しぶりに豪勢なものとなった。三枚におろされたシイラは、たっぷりのオリーブオイルで炒められ、ガーリック焦がしバターでにレモンをぎゅっと絞ってソースを作り、これがとてもうまい。さらに醤油をちょっとかけてご飯で食べると、飯が進む進む。それにかつおのあらを煮たスープ。
陸上に比べて無いものだらけの船上だが、とても贅沢な味わいを感じる。
奄美大島沿岸を南下していると、横浜の事務所から携帯に電話があった。台風情報を送ってくれたのだ。洋上を航行していると情報に疎くなるが、このようにバックアップしてくれると大変助かる。電話では、台風2号が接近中とのこと。何処に避難をするか、できれば沖縄本島に行っていたい。なんと言っても大都市があるので、物資の調達、場合によっては出入国の手続きも取れるからだ。

4月22日(火)1430沖縄那覇入港
無事、沖縄にたどり着いた。荒れ模様の海、叩かれながらもほぼオールハンドで乗りきった。全員陸地に足を着け、やっと一安心といったところだ。ここで台風が過ぎるのを待つ。
が、しなくてはならない仕事だけ済ませてしまう。まずは給油。ローリーに来てもらい給油をしていると、まわりの海面に油が漂っている。もしやこの船かと見てみると、どうも船内が油くさい。実は数日前からこの匂いが気にはなっていたのだが、本格的に臭い。ビルジを見ると案の定軽油が浮いている。調べていくと250リッター入りのタンクが両舷に設置されているのだが、右舷側のタンクから軽油が漏れている。しかも今給油したばかりで満タンのタンクだ。船の周りに流出した油で海上保安部が調べ出している。やばい、絶体絶命。と思っていると、隣に泊まっている古い赤錆だらけのフィリピン船籍の船が怪しいと見たのか立ち入り調査を行い出した。ここで騒いでは自首するようなものだ。船上に出てゆったりと、どうしたんですかというような顔をして経緯を見守る。
ほとぼりが冷めてから、ドラム缶を2本手配し亀裂の入っているタンクから軽油を抜き取る。そして船の構造をばらすことなくなんとか空になったタンクを船外に引っ張り出し、修理してくれるところを探す。幸いなことに、またもハナの携帯電話が役立ちすぐに修理屋さんが見つかり、なんとか事無きを得て修理、復旧を完了した。

復旧を完了してから街に繰り出す。
久しぶりの人ごみ。ハナや若いクルーは通り過ぎる女性と言う女性がみーんな素敵に見えるらしい。浮き足立つクルーを引っ張って夕食を済ませ、ここ那覇で足止めを食らう分、出国審査をここでしてしまい、那覇を出た後は石垣島には寄港せず、台湾にもよらずにダイレクトにバシー海峡に向かうこととした。そこからフィリピン・ルソン島を左に見て南行し、オーナーと待ち合わせをしたバタンアイランドへ。そこからオーナーも一緒にクルージングをして最終目的地スービック、マニラに近いそこはAPECなどが行われた世界屈指のリゾート。台風待ちはしかたが無いのだが、オーナーがバタンで待っていることを考えるとうかうかしていられない。結局予報どおり、3泊4日を那覇ですることもなく過ごし、台風通過と同時に出港することとなった。

4月26日0330。台風が過ぎ去ったのを見計らって出港。
と、思ったのだがいざもやいを解こうとするところでメインエンジンがストップ。ジェネレーターも相次いでストップ。エアコンはダウン、3ヵ所あるトイレもすべて詰まってしまい、こんなことは普通では考えられない。すぐにストレーナーやこし器を点検するも問題がない。若手クルーが潜って船底を確認してくれると、なんと木材のチップがぎっしりストレーナーに詰まっているという。それから悪戦苦闘し、分担してすべてのつまりを取り除くのに3時間を要した。日が高く昇った0630、やっと出港。出港前にすでに全員へとへとだったがやむ終えない。風は北から東の追い風に恵まれ9ノットをキープして安定した気持ち良いセーリングとなった。日よけのビミニトップが遮ってくれるが、太陽がじりじりと南国のそれとなり紫外線が強い。
海もいきなり南国のそれ、藍色の潮の中を走っていると、いきなりトビウオがコクピットに飛び込んでくる。それからは、スターンから流しているルアーにヒットの連続。5フィート近いシイラが食いついてくる。あと二日の航程。夜は満天の星空、天の川がはっきりと見て取れ、流れ星がこんなにあるのかというほど天空に鋭い傷を残して飛び交う。
ハナの簡単だが男の手料理はもちろんうまい。だが、どうしたのかハナともう一人の若いクルーが口論を始めている。疲れが溜まっていることもあるのだろうが、今までのお互いのストレスがここで一気に爆発したらしい。ハナはそれを百も承知のはずだが、今にも飛びかからんばかりに切れかかっているらしい。
船の上での喧嘩はご法度だ。
しばらく様子を見ていたが、収まるどころか切れる寸前、二人を呼ぶ。
何故だとは聞かない。二人を厳罰するだけだ。
狭い船の上では切れて衝動的に相手を殺そうと思えば簡単なことだからだ。ましてや、それを恨みに思って憎さが残れば簡単に相手を殺せる。隙を見て、相手の背中をぽンと押し海に落としさえすればそれで済む。夜間のウオッチの時にでもやられたら完璧だ。落ちた人間、外洋ではまず拾えない。ここが陸の上だったら徹底的に戦わせてもいい。どうせ素人の殴り合い、打ち所というはたしかにあるが、武道でもやっていない同様な二人であれば素手での殴り合いや蹴り合いではそれほど大きなダメージを相手に与えることはまず無い。だが、ここは洋上の船の上、狭い中で喧嘩をすれば足場も悪く事故となりかねない。だから喧嘩した二人は理由を問わず厳罰する。本当は二人を別個に独房にでも入れたいところだがそうもいかない。二人を呼び、直立させて私が頬つらをひっぱ叩く。
目を覚ませ!
そして二人をウオッチからはずし、船内3箇所にある便所掃除をそれぞれに命じる。それが終わるのを待って、再び二人を呼び私の立会いのもと冷静に話しをさせる。
そこまでしておかないと遺恨を残す。頭に来るのは一時の感情で、それぞれが腹を割って話せば解決する場合が多い。それでも駄目なときは、寄港地で船から下ろすしかなくなる。
それは残されたクルーにもその後の航程に大きな迷惑がかかることとなるので、なんとしても腹を割って話させなければならない。お互いの立場を分り合えば分り合えるだけの教育はそれぞれ受けているはずだ。船長はずいぶん傲慢と思われるだろうが、何しろ板子一枚地獄の果て、呉越同舟という言葉もあるが船では古風であろうがそういう縦割りの掟を守らなければならないときもある。
そんなときに救いのような声、
「島だ!!」
いつの航海でもそうだが、このロングクルーズではこの一声が響くのは嬉しい。
全員がデッキから島を遠くに探す。すると、島がはっきり見えてくる前に、風が向かい風に変わってくると同時に、なんとも言えない良い匂いに船が包まれた。
陸の匂い、それは花の匂いであったり木々の匂いであったりするのだが、なんとも言えない安心感に包まれた匂いである。
そして、島影が遥かに見え出した。全員が喜ぶ。
さっき喧嘩していた二人も、笑顔に握手をしあっている。

しばらく島影目指して走っていると、かすかな爆音が聞こえる。水平線に目を凝らすと一機の双発飛行機がこちらに向かって飛んでくる。やがて上空を旋回し、高度を落として我々のマストをかすめる。オーナーだ。全員オールハンズオンデッキのまま手を振ると、機体をローリングさせて応えてくれる。横浜では寂しい出港だったが、このお迎えはまるで映画のワンシーンのようで嬉しい。
あと少し。島が近づき、予定の港に入っていく。
岸壁に近づき、
「バウアンカー、スターンライン!」
と海外では定番の艫付けを指示する。
ところが岸を見て、不安が募る。100人以上もの人だかり。我々の船を見ている。すべてが男、しかも貧しげな港湾労務者のような雰囲気。決して手放しで優待してくれているのではなく、こちらの様子を伺い、腹減った、なんかくれ、頂戴、金くれ、取るぞ、襲うぞという雰囲気が感じられる。
そんな時、ハナがスターンロープを持ってにこやかに、
「マリボー!Hold the Line!」とわけのわからないことを叫んでもやいを投げている。
そこらに居たみんなは、初めて笑顔を作って我々を迎えてくれた。
後で聞くと、マリボーとはハンサムボーイという意味のタガログ語だそうだ。ハナがなんでそんなことを知っているのか、なるほどと思ったのは、かつて彼はフィリピン女性と大恋愛を経験していたとのことだった。
ハナが言うには、南太平洋のいろいろな島々に行って経験した。着岸したらまずは誰を差し置いてもそこのボス、酋長に会い、たばこでも何でも貢いで我々は酋長の大事な友達だということをみんなに知らしめるのだという。これがとても大事なことで、酋長の客人だということで島の血の気の多い若者やら、泥棒から船やクルーに手出しができなくなるという。
と、いうことは、と考えているところにオーナーが同伴で屈強そうな現地クルー2人とともに船にやってきた。てきぱきと燃料を補給し我々は上陸することもなくすぐに出港。バタンアイランドを後にスービックを目指す。海はかがみのようで、追い手の風に安定したまま紺碧の海を滑る。とてもセクシーな同伴の女性一人で、船内はしばらく忘れていた香水の匂いに満ち溢れ、私を含め今まで乗っていたクルーたちは夢心地だ。ハナはさっきから一人で「バテバテだぜー」とわけのわからないタガログ語をのたまわっていたが、最後まで意味は明かさなかった。ふと気がつくと、さっきからアウトリガーの船外機カヌーが私達の船と平走しているなと思っていたのだが、それが数隻に増えている。
なんとなくいやーな感じだなーと思っていると、そのうちの一隻がやたら近寄って来、こちらを笑いながら見ている。好奇心が旺盛なのかなとも思えるカヌーは、われわれを追い越したり、ぐるぐる回ったり、急に近づいて来たりしていた。
まさか、これが海賊かと思うとぞっとする。何しろ日本からきた船、銃などで脅されたら対応できる武器などは載っていない。しかも相手は数隻に分乗している。まわりから一斉に襲われれば一たまりもなくシージャックされてしまうだろう。こんなゴージャスな大きいヨットの中は彼らにとっては宝の山なのだろうか。しかも船外機のカヌーの方が我々より足が速い。
そんなことを考えながらヘルムを取って様子を見ていると、船室からオーナーが連れてきた現地人クルーがひょいとコクピットデッキに出てきてくれ、私の目を見てから廻りを眺め、いきなりタガログ語でカヌーでへらへらしている奴に向かって怒鳴り散らした。
しばらく大声でやりあっていたが、そのうちカヌーが一隻一隻Uターンして離脱していく。後で聞いたのだが、海賊とまでは行かないが、やはりこちらの隙を狙っていたようだ。
ふと気がつくと、スターンから流していたルアーがごっそりけんけんの仕掛けとともに切られて持って行かれていた。

やっと落ち着いて、オーナーと航海計画を練る。明後日にはスービックに到着できそうだ。オーナーが入国手続き、税関、検疫と上陸のための手続きがスムーズに行くように携帯電話で手配してくれる。
ところが、ここで以外な問題が持ちあがった。なんとプレジデントホリデーというのがあるらしい。これは、大統領が勝手に年7日間も好きなときに好きな日を休日にすることができるという。ちょうど入港予定の木曜日がそのプレジデントホリデーとなる。木曜日に入港しても、翌週の月曜日まで我々は上陸ができなくなる。
それはつらい。なんとしても水曜日、しかも役所が開いている5時前に到着しなくてはならない。オーナの了解を得て、フルセール、フルアヘッドエンジンで先を急ぐ。
燃料は満タンだ。頑張れ!

そしてやっとの思いで5月1日水曜日、だが一時間遅れの1800にスービックに入港。オーナーの必死な計らいで、役所の人間が一時間遅れの船にやってきてくれた。無事に揃って入国。
私達は、日本での5月の連休に仕事が入っていた。フィリピン到着しても、またもタッチアンドゴーで日本への帰国の途についた。ハナからは、いまだにそのタッチアンドゴーについて責められる。

怖い話 第六話

つい先日のJIBT、国際かじき釣り大会でも実はあわやという船舶火災が起きた。船舶火災、これほど怖いものはないだろう。確かにまわりは水の溢れる海、だが船舶火災はその海水を使って消火作業をするゆとりなくあっというまに燃え広がると言う。それだけ船には可燃物が多い。近年、あまりこの船舶火災の事故例というのはすくなってはいるが、あわやという思いをした方はかなりいらっしゃるようだ。今回は、この船舶火災について岩本船長にお伺いした。

船舶火災、船の上で火災にあってしまうと逃げ場の無い船、それはとんでもなく怖いことだろう。一旦起きた火の手は廻りが早いという。船には燃料はもちろん発火性の危険物、様々な可燃物が沢山積まれている。艇体もFRP製が多く、それは石油の産物で一旦火がつくとゴムタイヤのように燃えなかなか消えないらしい。いままでにこの船上火災の話はいろいろと聞いてきたが、それには様々なありがちな事例が多く含まれていた。それぞれの原因は様々あるものの、はやり電気配線からの出火、経年劣化したパイプ等から燃料やガスが漏れ出したとか、排気ミキサーにピンホールができそこから発火性のあるガスが噴射されていてあわやとか、バッテリーのターミナルに針金が接触していてそこがスパークしていた、配線がこすれて漏電、そこからスパークしていたなどなどあまりメンテナンスが施されていないのが原因となるのか、いろいろな理由でエンジンルーム内に気化した生ガスが充満しそれに発火、身近にもあわやだったというそんな怖い話を耳にする。
昔、といっても平成6年ごろだったか、ある河川に係留している無人の船から突如出火したという事件、当時聞いて驚いたことが今でも記憶に留まっている。何故無人の船が突然爆発炎上したのか。まわりには火の気はなかったという。もちろん心無い人のタバコの投げ捨てによる原因も考えられたが、以外な事故報告だったので驚いたのだ。ホームセンターなどで安く売っている赤いポリタンク数個にガソリンを貯蔵し、船の上で保管していたのが原因だった。釣行のための燃料ストックだったのだろう。知らない人であれば誰でもやりそうなことではなかろうか。給油所ではポリタンクにガソリンを給油することは禁じられているが、何しろ法令で許されている容器は高額で、どうしても安いポリタンクに魅力がある。つい、平気だろうと安易な気持ちでやってしまう。危険物取り扱い主任の資格を取れば、徹底的にこのポリタンクでのガソリン爆発事故を事例とともにその危険性を叩きこまれるが、普通の人にはそこまでわからない。ガソリンは非常に危険な燃料で、その気化したガスは特に発火性が高い。ポリタンクのみならず、給油所やタンクローリーなどでもしばしば静電気などで爆発事故を起こしている。それもタンクに注入中の通気管から出た気化ガスに引火したという事例まであるほど思わぬ事故例があるほどなのだ。この船の場合は、ここまで説明すればもう想像できるだろうが、船がチャプチャプ揺れるポリタンクの中では、ガソリンがポリタンクの中でシェークされ、飽和状態にまで気化されたガスが充満している。液体であるガソリンは素材に含まれているカーボンと摩擦を起こし静電気が発生、それが濃密に気化したガソリンにスパークするものだから、まさしく大きなモロトフカクテルとなってあっというまに船を火に包んでしまった。どうです、怖くないですか。

さて、岩本船長にそんな船舶火災のようなご経験はないですかと失礼を省みずお伺いした。私には船舶火災のような経験はないですね、と爽やかな笑顔とともにお答えいただき、うれしくもネタが無いと正直がっかりしてしまった。ところが、少しの間宙に目を漂わせた船長、おもむろにデスクの引き出しから一枚の写真を持ち出してきた。そこには、かなり大きな白いハルのヨットが驚くべきことに無残にもデスマストをし、デッキから黒い煙が立ち昇っているまさしく船舶火災の事故現場の写真だった。長年お付き合いをさせていただいているお客様の船なんですが、こんな経験した方がいらっしゃいます、と、その一枚の衝撃的な写真とともにお話をお伺いした。

それは2004年頃のことだったらしい。
場所は日本から岩本船長が廻航を請け負って、その優雅な50フィートヨットを届けたフィリピン、プエルトガレラのリゾート。
ヨットを洋上別荘として、美しい入り江にアンカーリングをしてバカンスを優雅に楽しんでいた。そこはダイビングスポットとしても最適なところで、オーナーはテンダーを降ろし、母船であるヨットから離れてシュノーケリングを楽しみにクルーと4人でテンダーを走らせた。海中の様子を散策し、色とりどりの小さな魚達や、美しい珊瑚を満喫していた。ひょいと自慢でもある自分のヨットの美しい姿を見ると、なんとその瀟洒な白い船体から黒い煙が青い空に立ち登っている。一瞬我が目を疑った。だがまぎれもなく、黒い煙が立ち登っている。ヨットには現地のフィリピン人艇長の弟クルーが残っている。あいつは一体どうしたんだ。まわりのクルーに大声で異変を知らせ、体力の続く限りめちゃくちゃなクロールでテンダーに泳ぎ着き飛び乗る。もう一度我が愛艇を見ると残酷な姿が目に映る。もたもたしているクルーを怒鳴りつけ、とにかく全員回収し船外機のスターターを引っ張る。こんなときに限って船外機に火が入らない。もたもたしていれば間に合わない。いやもうすでに間に合わないのかもしれない。船に一人残っている船長の弟は無事なのか、とにかくナムサンと祈りつつスターターを回すとやっとエンジンがかかった。
「掴まってろよ!」
と通じたのかどうか判らないが日本語で怒鳴り、我が愛艇に向けスロットルを全開にする。船外機は急激な発進でバウが持ちあがりハンプをなかなか乗り越えてくれない。気がついたクルーの一人がインフレータブルのバウに体重をかけるとやっとスーッと走りだす。スピードを増して水の上をカッ飛んでいく。だんだんとヨットに近づくにつれ、黒い煙がドッグハウスの入り口からもうもうと立ち上っているのがはっきり見える。早くつかないか。ヨットに残っているやつはどうしたんだ。どうすればいいんだ。テンダーの垢汲みに乗せてあったバケツが目に入る。その他に水をぶっかけることができそうなものはテンダーには何も無い。ヨットに装備されている消火器はどこにあったんだろう、混乱する頭の中で必死に考えるが、どうしても消火器の位置が思い出せない。くそ、肝心なときに使えないのでは用意して載せた意味がない。保険、ばつの悪いことに怠慢にも今年はまだ入れていない。最悪な事態。頭を振り払い、目の前の火災のことを考える。怖いのは火だけではなく、その煙だという。真っ白な頭の中を無理やり集中して考える。顔を煙から守るために、なんらかのマスクとなるものを探すこと。それを忘れてはならないと肝に命じる。映画のかっこいいシーンでよく目にするが、やけどを防ぐために頭から水をかぶっておくこと。だが、どうやって火を消せば良いんだ。海水だけは豊富にある。消火器の次に役立つのはこの豊富な海水しかない。船に上にもバケツがコクピットにあるはず。考えられたのはそれだけだった。
もどかしく近づくヨットの上に人影が見える。思わず、
「何やってんだ、火を消せ!」と叫ぶ。
「バケツがコクピットにあんだろう!!」
声が届いているのかどうかもわからない。パニックを起こしているのか船上の影はただただ右往左往するばかりに見える。
そのうちにやっとこちらに気がつく。
「バケツ!」それがやっとわかったのか、コクピットロッカーを探すのか上体がコクピットに消え、少ししてからこちらにバケツを振る。
「マスクをしろ!!」
その声も届いたのか、まわりをきょろきょろと見まわし、手近にウエスがあったのか切れっぱしで口元を覆うしぐさが見える。
「早く、海水をかけろ!!!」
舷側でバケツを海に突っ込み、そしてやっと海水がキャビンの中にぶちまけられた。
ぶつかるような勢いでヨットに接舷すると、もやいももどかしくクルーに任せ、海水を汲み上げ頭からかぶり、そのままバケツを手にとって船に飛び乗る。再び海水を汲んでキャビンの中へとぶちまける。もうもうと噴出す黒い煙のみならず、キャビンの中には悪魔の舌のような真っ赤な炎がちらちらと見えている。鼻にツンと来る臭気に思わず顔をそむける。かたわらにあった普段は雑巾に使っている手ぬぐいを見つけ、テンダーのクルーに、「リレーしろ!」
と怒鳴りつけながらそのオイル交じりの汚い布を口元に巻き、やっとリレーで送られてくる海水の入ったばけつを片手にキャビンの中に特攻する。リレーされてくる何杯かの海水をキャビンの中にかけて、いったん火は下火に見えた。裸の体にはさっきから火の粉が舞い降り焼けどを負っているのだろうが、そんなことにかまっている場合ではない。が、そのとき、むちゃくちゃにぶちかけた海水で何かの火のついたオイルが広がったのか急激に炎が広がった。
悪魔の舌はますます勢いを増して天井を焦がし、これが本当の、これまでか、という思いが脳裏をよぎる。幸い船長とクルー以下の乗船員全員にまだ怪我はなさそうだ。
財布やパスポートなど大事なものはアフトのオーナーズルーム。そこに飛びこもうと思って振りむくと、そこからももうもうとした煙が涌き出ている。すべてをあきらめるときが来た。思ったのではなくそう感じた。
「退船!!」
それだけをむなしく叫び続けながら、リレーをしているクルーに呼びかける。
「Go Out! Must Leave!」
それぞれが、目を白黒させながらテンダーに飛び移る。
自分もデッキを横切りテンダーに飛びこんだ。全員テンダーに乗っている。もやいを切るのが寂しくも悲しい。
愛着のある船、それを救ってやれなかった。雇っている現地人船長にテンダーの船外機を任せ、自分の目はその愛艇の姿を焼き付けようとヨットに向けていた。何かが弾けるような小さい爆発音。そして、炎と煙はデッキを覆い尽くして空へと立ち上る。さらに大きな爆発音。しばらくしてそのヨットの象徴、誇り高い美しいマストが音も無く倒れていく。

後日の現場検証。
原因はどうも電気配線からの発火のようだ。現地で行ったジェネレータのメンテナンス工事の為に一旦降ろし、再度載せて据え付けたのだが、電気配線が据え付けの時に挟まっていたらしく、配線被覆を痛めて漏電し発火。
発火直後、船上に残っていたクルーはうららかなな陽光の中、日に体を焼くためにデッキに寝そべりながらウオッチをしていたが、その前の晩までの外洋に揉まれた航海で疲れたのだろう、眠り込んでしまいまったく発火に気が付かなかったらしい。鋭い刺激臭で眠りから引きずり戻されたときには、もうすでに煙が噴出し、あわてて消火器を探したがどこに置いてあるかも思い出せなく船上を右往左往していたという。さらに消火器ばかりに気をとられ、バケツで海水をかけるなんてまったく思いつかなかったらしい。初期消火の時点ですばやい対応をしていればそんな惨事とはならなかったのだろう。ダメージはあったとしても笑い事で済んでいたのかもしれない。とても高い代償を払わされたが、良い勉強になったよと笑いながら岩本船長に後日日本に帰ってきたときに語ってくれたと言う。

その勉強とは、普段から消火器の位置をクルー全員が確認をしていなければまったく役に立たない無益の長物となる。消火器にもいろいろと種類があるのだろうが、その使用期限があるものもあるから、やはり普段から確認をしておかなけらばいざと言うときに役立たない。さらに実際に火の手が上がったらどういうふうに動けばいいのか、普段からシミュレーションをしていないと、すばやく初期消火活動することなんてできないものだ。起こってからでは遅い。普段からあなたもこの教訓を肝に命じて、キャビンの夜話のお楽しみでも良い、クルーを交えてシュミレーションを話し、訓練しておいたほがいいのではなかろうか。

怖い話 第五話

船には向き不向きな海面がある。平水区域とされている東京湾、だがその東京湾の中でも気象条件によっては平水とは言えなくなる海となることもある。まず自分の船の特性をよく知り、そして決して船に無理をさせない。その教訓となるような今回の怖い話。

屋形船をメンテナンスするため荒川から造船所のある横浜まで廻航してほしい、それが依頼だった。荒川から横浜というと風波の影響がほとんど無い運河を渡っていけば27マイル。10ノットでのんびり行っても3時間。だが、話を良く聞いてみると、当日、昼間の営業を済ませてから廻航とのこと、つまり出港は早くて3時頃。11月となれば日没も16:30頃、当然夜間航行を覚悟しなければならない。そりゃー屋形船、ほとんどがきらびやかな都会の夜景を楽しむためのものだから問題はないだろう。のんびり走れば勝手知ったる東京湾、熱心な依頼主の心意気にやりましょうと笑顔で応えてしまった。
実は、屋形船というものを操船するのはこれが初めて。以前に宴会をしたときに、バウスラスターがついているんだなーと思った程度で、船の知識としてはまったくなかった。
今回のこの船は、定員がなんと110人という大型なもの。日本の厳しい安全基準を考えると110人はすごいなと思うが、それは東京湾の平水区域という条件で許可されたもの。宴会など停泊中の揺れを押さえるために平底の船型で、ものによってはスタビライザーもついているらしい。つまり船の横揺れに対してはよく考えられているのだが、波がある中で走ることはまったく考えられていない船だったのは実際の航程で身をもって知った。

当日、屋形船の係留されている桟橋を、弊社のエンジニア、ウッチーこと内田とともに造船所の営業担当3名に案内され訪れる。彼らも横浜まで一緒に航行してくれる。
天候は晴れ、だが南寄りの風がそこそこ吹いていた。
全長24mはあるだろう長細いその船の操船席は一番後ろ。レーダーを含め一応の装備は揃っているが、屋根の上に半身出しての視界は思ったより良いのだが、それでも長い屋根に遮られて自分の舳先は見えない。実際の操船ははっぴを着た粋なお兄さんが軸先に立って、障害物などがあった場合は手などで合図を行うのだろう。ウッチーには、艫でエンジンの調子を確かめてもらいながら航行するより、そろそろ冷たい風となってきた軸先で仁王立ちになって耐えてもらうしかない。
気は急いたが念入りに出航前の機関点検をしてもらい、桟橋を離れたのが16:00。
エンジンの調子を、音で見ながらゆったりと荒川に出る。長い屋根の向こう、軸先に見えるウッチーを見ると、普段使っている手信号で回避と保針方向を指し示してくる。流れゆく船側を見ると流木。よしよしその調子だ。今日の横浜までの航程、2~3時間頑張ってもらおう。できるだけ運河を使うつもりだが、この南よりの冷たい風の中、波の影響を食らいそうなのが唯一羽田沖、そこは通らなければならない。平水区域とはいえ南が吹くと行き交う本船の曳き波と混ざり合い、複雑な掘れた三角波を生じる。水船長が長いということだけを考えれば、おそらくそんな波をつぶして走ってくれるだろうと希望的な観測を思うのだが、心配なのは平底、舳先にぶちあたる波を平底が断ち割ってはくれず、いいように挙動してしまうのではないだろうか。そうなってしまうと、軸先にいるウッチーはたまらないだろうなと思いながら、なに、少しの我慢だろうと荒川を東京湾に出る。若洲ゴルフスプリングスの岸壁に沿って南端までくると遙か彼方の海面は南の風が強いのだろう、ウサギが跳ねているのが見える。そこで右転舵、埋め立て地に囲まれた東京東航路にはいる。10号地付近はところどころ白波が立っているものの、さほどの影響もなく東京西航路へ進入。転舵する際にはその海面がクリアーかどうかウッチーが軸先から手信号を送ってきてくれる。夕闇迫る運河を走りながら、暗くなったらウッチーの手信号を確認するには懐中電灯の光での伝達になるなと考えながら、東京灯標のある前方海面を見ると、開けた海面は夕日に照らされたウサギ達がピョンピョン光っている。覚悟を決め、大井信号所のある城南島公園を右目にとことこと走っていく。目と鼻の先の羽田空港に着陸するので当たり前なのだが、こんなに低く飛んで大丈夫なんだろうかと思えるジャンボジェットの巨大な機体が爆音とともに次に次に頭を掠めるようにアプローチしてくる。その爆音とともに、船首からは白いしぶきが飛ぶようになってきた。かまわず船を進める。羽田の誘導灯が美しく光るのを見ながら進んでいくと、あっというまに闇が迫る。真っ暗な海面。真っ白な波頭がいきなり見え波が来たことを知る。船首からは派手な白いスプレーが宙を舞う。波がまったく見えないので操船でカバーすることなくなされるがままだ。エンジンの回転数を下げる。それでもいきなり船首が持ち上がったなと思うとどかんと落ちる。白いしぶきが飛びちり、風に乗ったしぶきが長い屋根を飛び越しここまで届くようになった。水船長の長いことが波には役には立っていない。この水船長の長さは推力を助けるためだけの物となっているようだ。そういえば一緒に乗っている営業の人たちの姿がここからでは見えない。しぶきがかかるのを嫌って船内にでもいるのかなと思いながら・・・

はじめからいやーな予感がしていたんだ。
いつも慎重な岩本船長が相手の熱意に押され、ノープロブレムと言って受ける廻航の仕事は、補佐する我々が心してかからないとやばいことが多い。今回は、東京湾を運河沿いに横浜まで屋形船を廻航、楽勝というが出港時間が日没間もない夕方。おまけに南の風が羽田沖を難所にしているだろう。だが、まー操船は歴戦の猛者、岩本船長だし、俺はエンジンをしっかり見ていればいいだろうくらいのつもりで乗り込んだ。だが、屋形船の操船席を見てはじめて、覚悟を決めた。視界は長い屋根に遮られて、船首付近は全く見えない。よく考えて見ると、前に屋形船で宴会をしたときに、軸先にはっぴをきた威勢のいいにいちゃんが乗っていきがってんなと思ったが、あれはお客さんにかっこつけて見せているのではなく、軸先のウオッチが必要だからやっていたんだと改めて思い直した。伊達なだけではなかったのね。その役は、やっぱり今回は俺がやるしかないんだろう。案の定、岩本船長からは、船首でウオッチを頼むと言われ、南とはいえそろそろ冬の冷たさを感じる風の中、横浜まで軸先に立つ覚悟をした。夜間になったときには、いつもの手信号に懐中電灯が必要になる。それを用意してもやいを解いた。
陽のあるうちは良い。こちらから出す手信号に岩本船長がうなずいているのが目の端っこに捕らえられて安心感がある。陽が落ちて暗闇になると、意思の伝達はこちらかの一方通行になる。声は届かないだろう。その分、岩本船長が常に俺を見ていてくれることを信じるしかない。
大井埠頭を越えると、問題の羽田沖。暮れゆく光の中で風が強くなっているのがよくわかる。船は進む。洗礼はすぐにやってきた。目の前の三角波。平底の船が持ち上がったなと思った瞬間、船を持ち上げた水がなくなったかのように船は海面に落ちる。壮大なスプレーが飛び散り頭から降ってきた。この船では、波にあわせて走るなんて細かい芸当はできないだろう。だが、スピードくらいは落としても良いだろう。船長!なんとかしてくれよ。次々とスプレーが軸先から飛ぶ。そのスプレーは、船首デッキに滝のように流れ込んでいる。デッキは水かさが増えた。たまに水の固まりとなって、ガラス張りの船室にもぶちあたる。まわりを見るとみるみるプールと化していく。うそだろう。スカッパーが塞がっているのか。岩本船長、かなりレスポンスが遅かったがやっと回転数をさげて波頭にぶちあたらないようにしてくれた。だがそれでもまだスプレーは遠慮なく飛び込んでくる。スカッパーの穴はどこだ。広いとは言えないバウデッキを泳ぐ。見つけた。だがものすごく小さい。これだけの水量、この排水口ではいくらなんでも小さすぎるだろう。恨んでも仕方がない。この船はもともと波の中を走るようには考えられていない。造船所の方々は、一人は最初から俺の脇に立っていてくれ、今は成り行き上俺と同じに水の中を泳いでいる。あとの二人はデッキに通じるガラスの扉が水に破られないよう船内から必死になって扉を押さえている。いずれにせよずぶ濡れだ。キャビンの入り口にお客様用の下駄箱があったのだが、それが大量の水でデッキに浮いて泳ぎだしている。やばい。この下駄箱が水流に押されキャビンのガラス窓を割ったら大変なことになる。下駄箱を押さえなければ。ロープも見あたらない。ビルジを汲み出すバケツも見あたらない。いきなり傾いたデッキから俺自身の体が海水と共に外にもっていかれそうになる。俺の気持ちを察してくれたのか、そいつが下駄箱を押さえにかかる。だが、揺れる船の上、自分の体をホールドすることすら難しい。場合によってはこの下駄箱、海に棄てるか。いずれにせよこれではやばい。船尾を振り返り、片手で一緒に下駄箱を押さえながら、懐中電灯をめちゃくちゃに振って船長に避難を叫ぶ。

羽田の滑走路脇を進む。真っ暗な海と陸、色とりどりの誘導灯が冷たい空気のせいか美しく硬く輝く。速度を落とした船、いきなりどーんと船を揺らす衝撃にまっすぐには走れない。左右に船首を振る。さらに速度を落とす。おかしい。この船の挙動が今までとまったく違う。ぐーっと右に傾いた船、立てなおすために転舵を繰り返すが、反応がワンテンポどころかものすごく鈍感になっている。しばらくそのまま我慢をして船の挙動を見ていると、やっと舵が効いてきて転舵していく。ところがある一点を越えるとさらに傾いでいく。誘導水?ここからは見えない船首が、しぶきで水浸しになりバラストが崩れ出しているのでは?そうであれば船内には誘導水が発生して、挙動を不自然なものとする。船はピッチングを繰り返しているので良くは判らなかったが、心なしかバウトリムとなっていないか。大きな舵がついているが、艫があがってしまうとどうしようもなくなる。ましてや一端右にかしいだ平底の船、そこに誘導水の力が働くとしたら、そのまま船をひっくり返してしまう力となりうる。転覆の二文字が頭をよぎる。やばい、と思ったときに、軸先のウッチーの海中電灯がはちゃめちゃに振られている。避難!なんだかわからないが、とにかくどっかに着けよう。多摩川!そこに逃げこめば左側にはタンカー用の岸壁がある。右転舵をする。傾きがなかなか収まらない。このまま何かの力が加われば、肌に粟が立つ。もしやと思ったところで復元してくれた。そのまま30分ほどかけてなんとかごまかしながら多摩川に入りこむ。風がブランケになりやっと船が安定したところで、ずぶ濡れのウッチーが寒さに震えながら報告に来た。
船内は水浸しだそうだ。

17:30頃、なんとか本船用の岸壁にもやいを取り、みんなで船内に入ったビルジを汲み出す。
相当な量の海水を、凍えた体で汲み出すのは辛い。造船所の方は会社に電話をし、排水ポンプとともに着替えや食料を持ってきてもらうよう応援を頼んでくれた。幸い機関までには水は行っていなかった。発電機も使える。だが船内の畳は水浸し。それを一枚一枚はがし、すべてが終了したのはもう真夜中となっていた。そこではじめて全員で遅い夕食を摂る。カップヌードルの暖かいスープが五臓六腑に染み渡る。
ウッチーをはじめとした造船所の方々は、私の知らないところで水との戦いを余儀なくされていた。操船席からはまったくわからなかった。その話がくつろぎとともに笑い話になっている。心から良かったと思えた瞬間であった。

船の中で暖房を思いっきりかけて夜明けを迎え、明るくなってから出港をした。多摩川からは運河を経由し、約16マイルほどであろうか。6:00頃の出港で7:30には無事横浜の造船所にたどり着いた。南の風が吹いている中、運河だけをたどっていけばあのような水との戦いは無かっただろう。だが、羽田沖はどうしても通らなければならなかった。しかも、この船にはまったく考えられていない波の中だったのだろう。対応が遅れ誘導水まで発生させてしまい、あわやという思いをしてしまったのは、やはり夜間航行という無理があり、状況判断に遅れがあったからだろう。
屋形船という極端な例となってしまったが、プレジャーボートにも充分当てはまる。
船によっては、たとえば外洋の波を全く考慮せず造った船も事実あり、またその使用目的によっては、外洋とは言わずこの屋形船のようにまったく波のことを考慮せずに造った船もある。それらは説明書には明記されてはいない。だが、その生産地、艇のコンセプトなどでも想像しながら判断することもでき、また船型に目が肥えた方にはある程度の想像もできるだろう。自船のことをよく知る。そしてそれには逆らわない。無理はしない。これが絶対だ。その船の特性をよく考えて運行しないとこの屋形船のような怖い思いをすることもあるかもしれない、という教訓に置き換えていただければと切に思う。

怖い話 第四話

今回の怖い話は、大阪から日本海を経て北海道の小樽に廻航する長いクルージング途中で二つのことが起きた。ちょっとしたことと考えられるこの教訓を活かすも殺すもあなた次第。だが、この教訓はロングのみならず、船を出港する際にいかしていただければと切に思う。

ロイヤルクルーザーと詠われた贅沢なストレブロ500。大阪から下関を経て日本海を北上し、北海道の小樽まで廻航する仕事を請け負った。このストレブロは私自身が憧れていた一艇。ロイヤルの冠に恥じることなく気品漂う落ち着いた船は広々としており、まさに重厚さとエレガンスの融合。2家族8人が贅沢に余裕を持って楽しめるレイアウト。そして何よりどっしりとした安定感をもってクルーズできる船。スピードはさほどではないがその走りはこれこそが品のある世界と主張する。大阪にあるこの船、進水してから専門業者が心を入れてメンテナンスをしてきた。中古艇といえど信用できる。それをまるでオーナー気分を味わうかのように日本を半周する仕事。悪くない。
大阪入りをした出港前日は、いつものとおり艇の点検をする。さすがに信用できる業者が面倒見ていただけあって、汚れやすいエンジンルームもクリーンそのもの。船底部もオイルの跡は一切無くちり一つ落ちていない。これだけしっかりやってくれていればエンジンの調子も信用できる。航行中になにか変化、オイル漏れなどがあってもすぐに判断できる。点検を済ましその優雅な船体を給油バースに移動、明日からの出港に備えて満タンにしてもらう。その後は買い出し。約一週間を航程とした長い航海。時には名も知れないうらぶれた港が泊地になることもあるだろう。さまざまなことを考えながら、走りながら食べられるもの、保存できる朝飯、晩ご飯、飲料、そして我々の燃料であるアルコールなども無駄にならないよう頭を使いながらかごに入れる。これが案外わくわくして楽しい。

翌早朝、GM直列6気筒92TAエンジンの暖気運転を充分に済ませ、ストレブロ500を大阪の桟橋から離す。回転数のわずかな差で燃料消費量の差がばかにならないことから、コンサンプションを計算しスピードは18ノット平均とする。それくらいのゆったり感が不満にならない船である。GMのエンジンは2サイクルでオイルを食うことから、オイルメーターと冷却水温度のメーターに注意を怠らない。一時間くらいをかけて明石海峡、そこから崩された岩肌の目立つ家島諸島を越え、瀬戸内海の島々に囲まれた静穏な水路をひた走る。
夕方、予定どおり広島の手前、我が故郷でもある倉橋島の桟橋に舫う。このストレブロを駆って故郷につけるのは、まるで錦を飾って凱旋するような誇らしい気持ちだ。懐かしい笑顔の親戚知人に迎えられ暖かい夜を過ごす。
二日目はゆったり6時過ぎに出港。かつては水軍が割拠していた島々を越え、関門海峡に向かう。本船のひしめき合う狭い海峡は流れが時に10ノットと速く、いつも新鮮などきどき感がある。源平合戦を思い浮かべながら速度制限のある本船航路の脇を、下関や門司の港を観覧しながら進む。途中には武蔵と小次郎が雌雄を決した巌流島がある。この巌流島、今は船島と命名されているが何にもない島、恐らくそこを武蔵と小次郎が走ったのであろう砂利浜を見ながら進むと、そこはもう玄界灘。本州に沿って萩港めざして北上する。
萩港では漁協に許可を得て停泊。燃料も満タンにしてもらう。時間があれば歴史のある萩の町を散策したいが今回は仕事、そうはいかない。

三日目、快調に回ってくれるGMのオイルをチェックし出港。のっぺりとした日本海。今日は距離が稼げる。シーラー筏という竹を束にしたような漁具に目を凝らし、点在する島々を抜け、沖出ししてから出雲にある日御碕を目指す。まるでタイル敷きの上を滑るかのようなスムーズなクルージングは気持ちが良い。だが、大陸が近いこともあって密輸船だ、難民船だと事件が頻発している海域。知人も知らずに麻薬を密輸している船を転がしたことがあったと言っていた。海上保安部もぴりぴりしている。それともうひとつ気がかりだったのは、こんなに気持ち良く走れる日はそうざらにない。脚を伸ばせるとこまで伸ばしたいという小さい欲があった。だが、燃料計はみるみる減っていく。どこの港に入るか。それが課題となった。この判断はその後の航程が、この時期変化する天候のことからも、とても重要なファクターとなる。昼、日御碕沖合いを通過。燃料はあと3時間くらいは大丈夫だろう。境港では近くてもったいない。さて、何処に入るか。安全を見て浜坂港を目指す。気持ちの良いクルージング。できるのならばいつまでも走っていたい。浜坂に近づく。燃料系とにらめっこ。まだ走れる。時間もまだある。そしてとにかく気持ちがいい。次の港をチャートで探る。香住港、大丈夫だろう。内心ひやひやとしながらも、自分をごまかす。いや、自分の小さな欲望に負けたのかもしれない。あまりの気持ち良さ、エンジンの快適な音から、わずかだが知らず知らずに回転を上げていた。そのちょっとの差が燃料消費量の計算を狂わす。常に燃料計とのにらめっこ。報いはやってきた。右舷がゆっくりと傾いてくる。トリムタブでは修正がおいつかなくなる。良く考えてみると、発電機も燃料を消費している。それも左舷のタンクから引っ張っている。左舷機が息をつき始めた。左舷タンクはもうほぼ空なのだろう。右舷のタンクはひと針分残っているはず。左舷機を止める。右舷も1300rpmまで回転を落とす。片ハイ運転。速度は対地で7ノット。港までもう少し、なんとかなる。そうやって、なんとか1600着岸をした。もやいを取った瞬間、右舷機が息をついて止まった。冷や汗。
だが、ツケを払うのはそれからだった。エンジンルームに篭り、汗を掻きながらそれぞれのエア抜きをしていかなければならない。仕事が終わってから、自分に負けたことを反省。繰り返してはならない。

四日目、あいにくの雨。だがストレブロのロアーステーションは心地よい。突き出た能登半島のほぼ突端に位置する輪島を目指し出港。昨日あんなに怖い思いまでして脚を伸ばした意味が半減するのだが、輪島の先はえぐられたような地形から回り道となり適当な港が新潟まで見当たらない。しとしとと雨が降る中無事輪島港に入港。地元の漁師さんなどが行く居酒屋で、いわゆる「肩フリ」という情報交換をしながらゆったりとした時間を過ごす。

五日目、天候はどんよりとした曇り空。見通しも2マイルくらいか。こういう日は気分が落ち込む。能登半島の突端をかわして、佐渡島を左に見るように針路を取る。無風。大きなうねりをゆったりと乗り越えて船は進む。大きい佐渡島の脇を通り抜けていると、突然ドカンという衝撃が前触れもなくやってきた。
何か巻いた!瞬間的にガバナーを手のひらでたたくように閉じ、クラッチを切ってしまう。周囲に障害物などがないことを確認してからプロペラを見ようとスイミングプラットフォームから身を乗り出し唖然とする。透き通るような青い水の中に大きなくすんだ青い色の網が一面に広がっている。なんだこりゃー!その大きな網は一瞬定置網をやってしまったかと思えるくらいのものでまわりの海面を見回してしまう。定置網であろうはずはない。捨てられた引き網なのだ。
フライブリッジに戻り現在位置を改めて確認する。GPS、レーダーともに不自然な誤差はなく、すぐ先に示す本船航路ブイまでの位置関係、そして水深から位置を割り出してもほぼ正確なところを示している。自船位置を確認し、潜る決意をする。冷たい雪解け水が流れ込む海に入るのには勇気がいる。だがそれだけではない。ここは外洋、獰猛な鮫もいるかもしれない。前に静岡の漁師さんから飲んだときに聞いた話を思い出す。
「外洋にゃー腹をスカした鮫はうじゃうじゃいるよ。潜るときにゃーよ、エンジン切るだろ。すると鮫にとっては不気味だったエンジン音がなくなるわな。だから船の上で待っている奴らはよォ、何でもいい、船べりをこんこん叩いて牽制してやんのさ」
本当か嘘かはしらない。あるいはプレジャーボートの我々をからかってくれたのかもしれない。
「おれ、潜りますよ」
一緒に乗っていたエンジニアが言ってくれた。
「駄目だ、おれが潜る」
「いや、おれにやらせてください」
「おまえ、昨日指先切っただろう。血のにおいがすると奴らがこないとも限らない」
鮫は血のにおいに敏感と聞く。鮫だけではない。外洋では何がいるかわからない。
手早く水着に着替える。ウエットスーツがあると良いのだが、ウエイトも必要となり荷物がかさばるので持ってはこなかった。エンジンを止めた後、彼に船べりをこんこんと叩いてもらいながら凍ったような冷たさの潮に脚を入れる。ちょっとの間スイミングプラットフォームに腰掛け体を慣らす。そう、私はだいじょうぶだと頭で思っているほど体はもう若くは無い。心臓麻痺でもしたらしゃれにもならない。体を適度に冷たさに慣らし、意を決してプラットフォームから海中へ滑りこむ。大丈夫だ。皮膚だけが冷たさを感じている。本当に冷たいときには骨に来る。透明度は高い。きれいな水色の潮、ぐっと潜って船底を見ると、大きなきったない青い網が両舷のラダーとペラをすっぽり覆い尽くしている。手に紐でぶらさげたシーナイフを抜き取り差し込んでみるが弾かれてしまう。これではどうしようもない。一度浮上し、息を整えてからもう一度潜り、手近な網に刃先を当てるがそう簡単には切れてくれない。船張りを叩いてくれているコンコンという音だけが耳に残り、寂しいあきらめが脳裏をよぎる。
船に上がると差し出されたタオルで水気を取り、熱いシャワーを浴びながら考える。やりたくなかったが、SOSだ。取っておきのウイスキーを瓶からストレートで呷り暖を取る。
関東周辺ならば知り合いも多いが、さすがにこの辺りではどこに連絡を取って良いのかわからない。どうしようもない、海上保安部だ。
こんな豪勢な船だから、まさか密輸船とは思われるまい。だが事後の事情聴取などの面倒は避けられないだろう。それで時間を費やしてしまうのは惜しいが背に腹は変えられない。
マリンVHFのスイッチを入れ海上保安部を呼び出す。
GPSを読みながら現在位置、事故の状況、現在の様子、怪我人はいない、何処から来てどこにどうして行くのだ。これは事故だ。おれは悪いことなんてしてないんだぞ!叫びたくなる衝動を押さえながら煩わしい質問に誠意を持って応える。
無線通信の後、立ち込める霧の中、レーダーリフレクターがしっかり役目を果たしてくれるか確認をする。曳航される準備をする。バウの両舷のクリートにしっかりと太く短いロープで大きなループを作る。曳航用の太く長いロープをそのロープにもやい結びのアイで繋ぐ。あとはすることが無い。飯でも食うか!ギャレーに篭り、船にある素材で料理を作り、ゆったりとした波に遊ばれながら味わう余裕もなく二人で昼飯を食う。あっという間に小一時間が経ったのだろう、レーダーをウオッチしているとそれらしき船影が近づいてくる。頃合を見計らって、ホーンで長音一回、短音二回、それを二回、運転不自由船の汽笛を鳴らしてこちらの所在を知らせる。周囲の霧を見まわす。さらに無線で遭難船であることを知らせる。情けない。しばらくすると逞しいエンジン音とともに船影がぬーっと見えてきた。15mくらいの灰色の船。いつもは疫病神のように見えていても今ばかりは仏様のように見える。助かった。
無線で曳航の段取りを打ち合わせする。さすがに保安部、あちらが持っているロープの方が強そうだ。バウに投げてくれたロープを、あらかじめ両舷のクリートを結んだ二重のロープを通すようにもやい結びのアイを作る。合図を返すとしずしずと発進。引かれる力でブローチングしないように舵を取りたい。だが、ステアリングは棄て網に絡まれたラダーでびくともしない。のったりと10ノットほどで走る。後ろに小汚い青い網を曳いてなされるがまま、まるで自船が大きなティーザーになったような気分だ。不幸中の幸いと言えるのか、プロペラが両舷とも網でロックされた状態、エンジンには負担が無いだろう。小1時間で新潟港に曳航された。
貨物船の脇に着岸後、早速事情聴取。
忍耐、事故なのにまるで自分が犯罪者だと洗脳されてしまいそうな質問を長々と受け、解放される。
早速、ペラに絡んだ網の除去の段取り。潜水夫が30分も潜りその網を取ってくれた。そのきたない網は、なんとストレブロを覆い尽くしてしまうくらいの大きさにびっくり。その潜水夫さんの報告では、プロペラやシャフト、ラダーには特に損傷がないようで、胸をなで下ろす。
早速、エンジンをかけて試運転をしてみる。問題が無い。助かった。
あと二日、新潟港からは376マイル、それで小樽に入れる。疲れた。早めに寝てしまう。

六日目、安定した天気、航程で無事津軽海峡を越え、北海道の松前港に着岸。
七日目、最後のレグを小樽まで、昨晩松前からの連絡で出迎えにきていただいたお客様が小樽の桟橋で待っていてくれ笑顔。労をねぎらってくれた。
だが、にこやかな談笑の中でこれらの怖い話があったことなど話もできず、予定どおり廻航できるすばらしい能力を持った船であることを強調して、今回のクルージングを終えた。

怖い話 第三話

今から7~8年も前のこと。あれはちょうど横浜ベイサイドマリーナが開業したての4月ごろ、軽く考えがちな「ちょっとだから…」、決して海を侮っていたわけではないがその「ちょっとだから」が気の緩みを生じ、そしてあわやという怖い思いをしてしまったこの出来事。いまだに忘れられなく、船、航海というものを改めて肝に命じた出来事だった。
横浜ベイサイドマリーナに係留されている24フィートの船外機艇を、メンテナンスおよび船底塗装のために廻航してほしいという依頼だった。同じ横浜市内で、本当に目と鼻の先とも言える八景島の裏手にある造船所へ、自分にとっては知り尽くした庭も同然、距離にしてもたかだか8マイル程度、20ノットでのんびり行っても30分あればお釣りがくる。しかも外洋を走るわけでもない。東京湾内、つまり平水区域という読んで字のごとくの水域。ちょいと隣のマリーナへ、くらいのとてもお気軽なきもちで引き受けていた。

ただ、その日は朝から北よりの風が吹いており、ちょうど海面に白いうわぎがちょんちょんと飛び出したように見える海象だった。でもうさぎどまり、ひげはまだ掃いていない。いずれにせよ、目的地までほんの少し我慢すればすむだろうという気持ちで、別段心構えも無しにその船を訪れた。
いつもどおりスタンバイの点検をし、特に気に触るようなところも船には感ぜず、充分に暖気運転をし、出港したのが0900 時頃だった。
横浜ベイサイドマリーナのランウエイに沿った長い防波堤をゆっくり進む。風波はほぼ北東からやってくる。防波堤を出たところで東に転針してしまうと真横から波をもらうようで、これはさすがにやっかいだなと正面の南本牧防波堤までそのまま進んだ。防波堤のブランケットの穏やかな海面の中で東に移動し、その防波堤が途切れる辺りから針路を南におとして八景島へと船首を向ける。しだいに波が大きくなり、それを斜め後ろから受け、大型艇ではどうということもないのだが、船外機で走る24フィートは前後左右に揉まれ始め操船も忙しくなってきた。斜め後ろから来る三角の追い波にあわせてローリングする船を舵で押さえながら坂を滑り降りる。波のボトム近くでは船首がその波に突っ込まないように船位を調整。船首が波に突っ込むと派手なスプレーが全身を濡らす。潮が入った目をこすりながら、次の三角波の背に乗りかかる。ガバナーを少し押し込み、波の山を上りつめ、そこでまた坂を滑り出すぞというときに、エンジン音が不規則になった。エ?という驚き。信じられないがエンジンが息をしている。ガバナーを押し込んでも引いても、プスンプスンとエンジンの機嫌は直らない。あわてて燃料計を見なおすと出港前の点検時と同じくまだ4分の1は揺れるゲージに残っている。なにがなんだかわからないままガバナーを神経質に操作していると、エンジンが息をあえいで止まってしまった。
うそだろ!どうすんだよ、と冷たい汗が背中を流れる。が、考える余裕もなく、推力を失った船は追い波の力で真横に持っていかれる。ひっくりかえるのではと思えるようなローリング。やばい、なんとかしなくては。イグニッションをまわすが、むなしくまわる悲しいセルの音だけ。長い経験から瞬間的に原因追求のシミュレーションが3っつ頭をよぎる。まずは燃料系統。燃料タンク内に結露した水が溜まっていて、それがエンジンに入り込んでしまった。これでやっかいなのは、その結露した水が古くから溜まっていた場合、その中に微生物が発生、いわばヘドロのようなものがエンジン系統に入り込んでしまっているとさらにややこしい。二つ目は、タンク通気口もしくはフィラーキャップがしっかりロックされておらず海水が入り込んでエンジンを焼き付かせてしまった。だが、これはかなりの量の海水が入りこまなければならない。フィラーキャップはしっかりとしまっていた。これはないだろう。そしてもうひとつ、一番ありがちなのが船の揺れに伴い燃料タンク内がシェーカーのように振られ、燃料がエアがらみになってしまった。そんなシミュレーションが脳裏をよこぎるがいずれにせよ、こんな揺れる船の上ではそれらを確認することはできない。東京湾特有な三角波に横向きになった船は、木の葉のように翻弄され続けている。まわりを見まわす。金沢の埋め立てた堤防が続く陸まではまだだいぶ距離はあるが、その前には漁業用の網が岸に平行に並んでいる。風はそこに向かっている。それにひっかかれば、船は助かるだろうが金沢の魚組とやっかいな問題を後から解決しなくてはならなくなる。せめてヒーブーツーができれば。このヒーブーツーというのは外洋をいく逃げ場のない漁師さんやヨットなどが、洋上で嵐に遭遇したときにシーアンカーなどを船首から流し、水の抵抗を利用し船を風下に流させて風上に船位を保つ昔ながらの方法なのだが、それをすれば船は少なくとも横向きになっているよりは格段と安定する。さらに定置網までの時間稼ぎにもなる。一番良いのはアンカーを打って船を止めてしまうことだ。その安定した中であればまだなんらかの対処が考えられるだろう。まずは足場を固めなければ。うんともすんともいわないエンジンで推力を失った木の葉のように揺れる船でも、足場さえ固めればまだエンジンの点検もできるようにはなるだろう。放っておいたら、うまくいって定置網、最悪は堤防に粉砕されてしまう。ローリングとピッチングがぐちゃぐちゃになっている船のデッキを、海に振り落とされないように注意しながら船首に走る。シーアンカーとは言わない、せめてアンカーでも入っていてくれ。バウロッカーをのぞき込むと、あった、ロープと一緒にダンフォースのアンカー。揺れる船の中で頭をぶつけながら苦労して取り出してみると6kgのアンカー。うーこれでは波のない静かな入り江ならともかく、こんなに波があるところでは船首が波に持ち上げられるたびにシャクってしまってうまく海底を掴んではくれないだろう。でもとにかくアンカーはあった、まったく無いよりはましかと気を取り直し、ロープのエンドをクリートにしばりアンカーを海面へ。このあたりの水深は20mくらいのはず。ずるずるとロープを出していき、めいっぱいで60mくらい出た。水深の3倍、うーむ、たとえアンカーチェーンがついていたとしてもこの波の中で果たして効いてくれるか。しばらく様子を見るが、周りの景色は動いたまま。海底にひっかかることなく走錨している。たのむ、どこかに引っかかってくれ!

祈る気持ちでアンカーをそのままにし、また船尾に走る。とりあえず、船外機のカバーをはずして燃料フィルターを見ることにした。ところがこの揺れの中で、まず船外機のカバーがうまくはずれてくれない。何度か試みてみるが、潮でつるつるのカバーが滑ってしまうのと足場が悪く腰をいれられないのでカバー全体がうまく浮いてくれないのだ。ふと、小さいキャビンを見ると、毛布にくるまった船外機のペラが見える。オ!そうだった、補機が積んであったんだ。ベイサイドマリーナはご存じのように厳格に区画の枠内に艇全部が入らないといけないために、補機を取り外して係留されている。まったくこれでは補機があっても装着されていなければこんなときには役にたたないではないかとぶつぶつ言いながら、見ると9馬力の小さい船外機。普段使っていない船外機が役に立つのかどうか、取り付けてもうまく火が入ってくれるのかどうかもわからなかったが、とにかく今は他に方法がない。9馬力の船外機、40kgくらいか。揺れる船の上で自分一人が2本足で立つのも至難の業だが、なんとして取りつけなければ。大丈夫。やってみせるさと自分自身を激励しながらうんしょと船外機を持ち上げる。体もホールドできない。でもごまかしごまかし、体をほうぼうにぶつけ船外機を守りながら船尾のトランサムボードまで運んだ。ここで海に落としてはならない。船外機をロープで縛り付け、海に落とさないようにしてからトランサムボードに取り付ける。周りの景色は依然風に流されたまま。動いていない船だったらこんなもの、簡単に取り付けられるのにと思いながら、おそらく30分程を一人で格闘。波を見、揺れを予想しながら格闘技で鍛えた四股立ちでふんばって、間合いを計りながら力を振り絞って取りつける。できた。やったぞ。ホッとしたのもつかの間、まだまだこれからだ。周りの動く景色を見ながら、おもむろにスターターロープを引く。だが、エンジンに火は入ってくれない。むなしくローターがまわるだけ。失望感が渦巻く。だめか。燃えない生ガスが鼻をつく。ウッと吐き気がする。なにくそ、こんなことで負けてたまるか。吐き気を押さえるために深呼吸を繰り返す。口から息を吐いて、そしてゆっくりと鼻から吸う。その鼻から吸う空気は体に良いオゾンが一杯なんだと思いながら。腹いっぱい空気を静かに吸うと、そこで息を止め、腹に溜まった空気が自分のけつの穴とお臍のちょうど中間あたり、つまり丹田と呼ばれるとこに溜まるように意識をする。そうしておいて、そのきれいな塊が体の中の悪いものをすべて巻き込んで、抜けていくように意識をしながら、丹田から背骨にそって頭のてっぺんから放出するように止めていた息を吐き出す。3回繰り返した。気分が楽になると同じに、筋肉に溜まっていた乳酸が溶けていくような気がする。大丈夫だ。気を取りなおしてスターターロープに手をかける。助かる道はこの補機だけだという執念があったのかもしれない。必死でスターターロープを繰り返し繰り返し引っ張る。全身はぬれねずみとなって、体温が失われ体力がどんどん奪われていく。つらくなればさっきの深呼吸を繰り返す。そしてスターターロープを引っ張る。荒れた海の上でただ一人、孤独というものを感じる。頭の中をいろんな思いがよぎる。本当だたら今ごろは事務所に戻って昼飯はなんにするか、そんな考えから始まって、なんでこんな海が好きなんだ、子供達のこと、女房のこと、様々の思いが頭をよぎる。いかん、集中しなければ。スターターロープでできた血豆が破れそうになる頃、雑念を追い払って神経を集中しスタータロープを引っ張る。すると、シリンダー内に爆発を感じた。う、かかるかもしれない。夢中でスターターロープを引っ張ると、今まで眠っていたエンジンが真っ白な煙と共にやっと目覚めてくれた。嬉しかった。さーなんとかなる、と周りを見ますと、もうすぐ定置網を示す横一列にならんだ白いブイが波間に見え隠れしている。もたもたしている暇は無い。急いで船首へと飛んでいき、アンカーロープを引き上げる。だが、体力を使い果たした体にはこれが重い。手を伸ばして筋肉を休ませながら体全部の体重を預けて、背筋を使ってゆっくりゆっくり揚げていく。やっとの思いで揚げきったときには、もう定置網が目の前。急いでエンジンをまわしてそこからの脱出をはかる。ガバナーをおもむろにあげると、しゃくった船体でプロペラがキャピテーションを起こしている。取り付けたときにも気がついていたのだが、取りつけ位置がこの補機の脚に合っていなく、揺れる海面をプロペラが出たり入ったりしている。まったくどういうセッティングをしているんだと腹を立ててもどうしようもない。思いっきり艇の後ろに乗り出すようにして座り、できるだけプロペラが長く水を掴んでいられるようにして風上向けて艇を動かす。船位を改めて見てみると、八景島へ向かうよりはベイサイドに戻った方が遙かに近い。が、脚の長さが足らず水面を出たり入ったりするプロペラがキャピテーションを起こし、ピッチングの激しい向かい波をうまく走れない。そこで船首を南におとす。体をスターンのガンネルから後ろにはみだすハングオーバーをさせて。手はなんとか船外機のスロットルグリップを掴んだ状態。追い波の中、船首を持ち上げ気味でなんとか走ってくれる。だんだんとその船と波の波長にあわせるこつのようなものを体得してきて、楽しくはないがいくらか楽になった。そうやって1時間、いったんおき出しをした船でなんとか定置網をかわし、八景島の裏手の水路に潜り込むことができた。ブランケとなり、さほどハングオーバーしなくてもなんとか安定して走るようになる。そうやって桟橋にもやいを取ったときには、本当に体中の力が抜ける思いだった。
近い距離といっても、いったん海に出てしまえば自力で解決しなければならない海。ちょっとした気のゆるみがとんでもないこととなる。それ以来、私は近い遠いは関係無く、たとえ同じマリーナ内を給油に行くときでさえ、とにかくもやいを桟橋から解くということで、後戻りはできない緊張感を高まらせるようにしている。
そう、それを勉強できた、怖さも満喫し、体力の限りを感じたが、とても貴重な体験となった。

怖い話 第二話

94年の夏、横浜にヤードを持つとある大手メーカーから仙台、塩釜で行われる試乗会のため、船を回航してほしいという依頼があった。船は工場から出荷されたばかりの36フィート、ディーゼル2基がけのフライブリッジ艇。横浜―塩釜と言うとかつて乗っていた貨物船で片道一昼夜の航海、何度も走り回っている航路だ。ただ、心配だったのは航海計器の揃っている本船に比べ、この新造船にはとにかく売る前の試乗艇、レーダーはもちろんロランやGPSなどの航海計器はなんの艤装も施されていなく、あるのはただひとつのコンパスのみ。犬吠崎から北を走るこの航路、まだ梅雨が明けきっていない夏のこの時期は冷たい親潮と北上する黒潮との温度差から濃い霧を生じ、行き行く船を困惑させる悪名高い航路だ。過去にはその濃霧に犠牲となった船は数知れない。その濃霧の中を走るのに航海計器はコンパス一個とは正直心細いのだが、とにかく犬吠崎までは陸を見て、越えてしまえば大きな転針点はなく、ほぼ真北に針路をとれば塩釜にひっかかる。さらにこの周辺は内行船の銀座通りで、いざとなれば航海計器の装備されている本船についていけば良いだろうと、経験からの慣れで楽観視していた。
一日目は約120マイル先の銚子、そして2日目に銚子から針路を一本北にとった塩釜まで約150マイルを走りきる計画。今回は試乗会の日程が決まっているので、その主役であるこの船が到着しなかったら大事、安全をとって予備日を一日航海計画の中に入れる。早く着いてしまえば試乗会にむけてゆっくり船のお色直しに時間をかけてもかまわない。

出港当日、梅雨の晴れ間で気持ちの良い夏の太陽が照りつける朝、今日1日、そして明日とが気持ち良く走れることを願う。横浜で満タンにされた彼女を0900に出港させる。慣れた東京湾、本船航路の脇を快調に飛ばす。クルーはエンジンメカニックのT。彼には1時間ごとのエンジン点検をお願いしてある。メーカーは一流どころで信頼がおけるがなにしろ新造船、まだこの船のシェークダウンは済まされていない。
1200、太平洋に出て千葉県の最南端、野島崎をかわす。ちょうど潮も止まり活性がないのか鳥達も海上に浮いて羽を休ませている。ここまでは順調に気持ち良いクルージングができた。が、針路にあたる北東を見ると、続く陸地も遠く霧に霞んでいる。沖合いには不気味な霧のカーテンが視界を遮っており、そこを行き交う本船がふっと見えなくなる。いずれ心配していた霧の中に突っ込んでいくしかないだろう。となるとGPSで自船位置も見出せないこの船、陸よりに視界を確保して走った方が良さそうだ。万が一濃霧に包まれてしまったらめくらも同然、常に避難港を頭に描きながらの航行をする。
1400、勝浦を越えた所から、それまでのまっ平な海面だったのが、最初はそよそよと南東の風が吹き出し、そのうちにそれらの風に煽られたうねりがでてきた。いままでのように爽快感を味わいながらは走れない。トリムタブで船のバランスを取り直し、さらにガバナーを少し閉める。スピードが落ち風とうねりの波長に船をシンクロさせたとき、何かを五感のひとつが感じた。神経を尖らせてみるとかすかに、なんともいえない揮発特有のあの匂いが潮風に混ざっているのを感じる。今さっきエンジンルーム定時点検を済ませているが、異常は出ていなかった。が、もう一度点検するように指示。面倒くさそうに降りていくT。そして、エンジンルームを開けたなと思った直後怒鳴り声が聞こえる。何を言っているのかわからないが、とにかくスピードを落とすと燃料の匂いがあきらかに鼻をつく。まわりには船はいない。自船の燃料だ。経験からか船上火災が一瞬にして頭をよぎり、勇気を振り絞ってエンジン停止。風の音だけがゴーゴーと静寂な海を吹き渡る。そしてうねりの方向に障害物がないか、陸までの余裕、それらをみまわしエンジンルームに直行する。見れば説明を聞くまでもない。イグニッションから軽油が霧状に噴きでている。躊躇なくエンジン停止をして正解。霧状に出た燃料でガスが飽和した空気、熱く焼けたタービンから発火してもけっしておかしくはない状況。推力を失い木の葉の様に揺れるエンジンルームで、持参していた工具でプラグを締めなおす。狭いエンジンルーム、焼けたエンジンから匂いたつ刺激臭、ピッチングとローリングを複雑に繰り返す中でさすがに吐き気を催すが、クルーのTと2人で祈る気持ちで飛び散った軽油を丁寧に拭う。
そして、エンジンスタート。何事もなかったように、快調なエンジン音を響かせて火が入った。
Tをその場に残して船をそろそろとスタートさせる。針路をあわせ前方を見ると真上の空は青く、だが藍色の海面に続く水平線は白くもやっている。しばらく走るとTが登ってきて、
「大丈夫だよ」
と前方を向いたまま油まみれの横顔を見せポツリと言う。
この一言に勇気付けられ、気を取り直してガバナーをじりじりと風とうねりの波長にあわせてあげていく。やっと波の中でも安定を取り戻した船。が、さすがに心配なのかその後Tはしばらくエンジンルームを行き来してくれた。
彼がこまめに見ていてくれれば安心だ。だが、太東岬を越え、九十九里の沖を走って行くとその海岸線は北側に湾曲して遠ざかり景色はまったく目視できなくなる。あるのはコンパスの針がただひとつ。これが時には不安になる。今では携帯のGPSも販売され、当社にも予備として4っつのハンディーGPSをそれぞれ携行できるようになったが、とにかくこの時にはコンパスの針だけが頼り。ところが、海技免許の時に教わった様に磁針偏差というものもあり、さらに遠く白い壁に覆われ、太陽もぼやけてしまうと針路が不安になる。が、今はじたばたしてもはじまらない。現在位置から犬吠埼までは海図上では距離にしてマイル、おそらく20ノットくらいで走っているのだろう、このまま時間たってもなんにもなければその時に西に陸地へ向けて針路を取れば良いと開き直る。
そうやって、遠く白い壁に囲まれた海を走って時間あまり、予想どおり左前方に茶色い壁がおぼろに見えてきた。銚子の南側にある屏風ヶ浦だ。それを見たときの安堵感というものはなかなかのものだ。そしてラッキーなことにこの視界、フォグフォーンを備えた犬吠埼だが今日は吼えていない。行き交う本船は変針点がすべてここの沖合いに密集するのだが、それら船の行列も見える。岸よりは岩があり、また潮の流れが早いので、安全を見て2マイルほど離して航行、本船達にはかなり近い。犬吠をまわると、この梅雨どきに限らず雨が降った後などは大きな利根川から流れ出た流木やごみが障害物となって漂い、魚網やら刺し網なども多く、目を凝らして慎重に進む。河口近くは、外海からの見えない底力を持ったうねりと、川から勢い良く流れ出る水流で荒立ち、それに翻弄されないように銚子港へと進む。この船は重心が低く設計されているので舵回しがしやすく、そんな荒波に揉まれても信用できるのが楽だった。
銚子港の中は平穏そのもの、危なかったが目的を果たせた今日一日の航海を、ゆったりした気分で港につける。
港の中にはいつもここでお世話になる給油船がいる。給油をお願いし、さらにそこに抱き合わせで停泊させてもらう。
それから、航海の楽しみのひとつ、お風呂へと行く。お風呂には地元の人々が当然多い。赤銅色に焼けた漁師さんがいれば、すかさず声をかけ、地元ならではの天気の予想、そしておいしい食堂などの情報をいただく。いわゆる漁師との肩フリである。

翌朝、0600出港。
海象は、昨日のお風呂での漁師から聞いたとおり、風はさほどではないがうねりが残り、機能とはうってかわって梅雨空が戻ったすっきりしない天気だった。

怖い話 第一話

今思い起こせば回航請負業の初仕事は、ドキドキの連続だった。
31フィートの船を下関から横須賀に回航してほしい、それが懐かしい初仕事。下関の大手造船所に台湾から船積みで到着した新艇を、海路横須賀まで傷一つつけることなく運ぶ。予定は4日間。ただ、季節は西高東低の気圧配置が強烈な風を生む真冬。それが気がかりではあった。実はそれまで乗っていた本船から見れば、プレジャーボートなんてあんな木の葉のような小さい船で外洋を走っているのを大丈夫なんだろうかとはいつも思っていた。私にとっては不安のよぎる初めての冒険でもあった。

91年1月23日。
陸路下関入りをし早速その新艇を下見する。船は新造船のトローラー。当然GPSなどの航海計器はまだ設置されていない。はじめてじっくりとチェックするそのプレジャーボートは、本船に比べて勝手が違い信頼感はまったくなかった。装備されている部品はすべて貧弱に見える。エンジンはボルボ210馬力の2基がけで巡航は2200rpm、11ノット。本船なみに考え、東京湾の横須賀までは4日間の航程とたかをくくっていた。翌日は、エンジンに初めての火を入れ走行試運転。ただでさえ、その小ささから外洋に出てからの不安が募っていたのに、さらにその剛性感のなさが追い討ちをかける。引き波を乗り越えるのに船自体がたわんでしまう。機関にも良いことなんてありえ無い。それがどういう影響を船に及ぼすのか、なにしろ初体験、想像すらつかなかった。今思えばそのときに自分の五感になにかを教えていてくれていた。冬型の気圧配置、それでも東に向かうのには西の追い風が予測され、気持ちの上で楽にさせていたのは否定できない。

25日。0700時、造船所の方々から沢山の食料やら花束とで見送られ下関を出港。今ではそんな大げさな見送りもしてはくれなくなったが、この時はこちらが照れてしまうほど盛大にしてくれた。その当時、ヨットでは外洋レースというものがあったものの、下関から横須賀までプレジャーボートで回航するというのは、未知の世界、ちょっとした冒険の世界だったのかもしれない。乗員は私と古くから馴染みの機関士の2人。関門海峡を追い潮流に乗って開けた周防灘に出てみれば、追いの北西風がしだいに強くなる。が、所詮はまだ瀬戸内海、これが外洋に出てもっとパワーのあるうねりの中を走ることを考えると、もう野となれ山となれ。万葉集で名高い祝島を左にみる。万葉の頃、そしてかつては朝鮮通信司、太平洋側では九鬼水軍が今とは比べ物にならない装備の船で航海をした。その頃の船に比べればずっとましのはず。なんとかなるだろう。祝島から島影に入ってしまうと滑らかな海面にやっと安定した走行、ふぐで有名な東の上関、1345時大畑の瀬戸を越え、広島の安芸灘へと入る。どこから見ても兜の形をした甲島を左に見て平穏にとろとろと走り、かつて平清盛公がどういう土木工事を行ったのか、陸地を掘り下げ水路とした音戸の瀬戸を乗り越え1515時、馴染みのある倉橋島の桟橋に付ける。給油は420リットル。満タンで700リットルというのをこまめに給油しておく。翌朝は本船なみに0200時に出港を予定。GPSも無しに瀬戸内海を夜間航行をするのは確かに怖いが、なに、このスピード、海図と灯台の光りを頼りに本船にくっついて航路を進めばなんとかなるだろう。
充分な暖気運転を済ませ、予定どおり0200時倉橋島を出港。4日の航程のためにはなんとか今日中に串本まで行きたい。パキンと折れそうな冷えた空気で美しく輝く満天の星空に照らされた闇の中、真っ黒な島影に、時折刺すような灯台の光り、頼もしいその光りを確認しながら進む。本船航路を東に進む船を早々と見つけその後ろをついていく。0420時、流れの強い来島海峡を前に行く本船とともに越え、そのうちにしらじらと明るくなってきた備讃瀬戸をあいかわらず本船にくっついて進み、0900、桃太郎の鬼が島伝説で有名な男木島に寄港。360リッターの給油を済まし30分で出港。24の瞳で有名な小豆島を左に見て進み、壮大な渦潮を見るために見物客を乗せた小船が沢山出ている鳴門海峡が目前となると、一瞬、この船のパワーであの渦潮を乗り越えられるのかと不安になる。下から突き上げてくる不気味な潮の中におそるおそるはいる。まさしく木の葉のようにぐっと真横に動かされながらもなんとか渦潮を乗り切りホッとする。がつかの間、橋の向こうに大きく開けた紀伊水道は西風に煽られでこぼこの山並みのように見えた。さあ、いよいよ外海だ。荷物を固定しなおし、しだいに後ろからのプレッシャーが風、波ともに強くなる海を日の岬にむけて走り出す。
船は11ノットの巡航を、後ろから押してくれる波に瞬間的に早くなり、波の山に舳先が突き刺さると、ぐっと遅くなるのを繰り返す。ガバナーと舵を波に合わせて操りそれをえんえん4時間あまり。一種の拷問、自分との戦い、耐えるしかない。あと少しで日の岬というところで、それまでの3mくらいの追い波に艫を持ち上げられていて気付かなかったのだが、スタビリティーがどうもそれまでとはワンテンポくるい、さらになんとなく後ろが重いような気がした。
隣でワッチする機関士に指示。エンジンルームの確認をして戻ってくると、ストイックな彼がいつにないなんとも言えない笑みを見せて戻ってきた。
「どうした」
聞いても彼は応えない。自分で見ろということか。
無言のうちにヘルムを交代し、凍った潮をかぶるフライブリッジを降り、キャビンからエンジンルームの入り口のあるアフトバースを覗いてみる。と、なんとアフトバースのベッドの高さまで海水が浸水している。
なんだこの海水は!
何がなんだかわからない。あわててエンジンルームを確認すると、水が回るまでにはまだ少し余裕がある。原因なんてもちろんわからないが、今はそれを追及している暇は無い。
フライブリッジに駆け上がり、船を岬のブランケットへと走らせながら、操業している漁船を見つけ大声でどなる。
「船が沈む!!」
が、この風の中、瞬間こちらに顔を向けてくれるのだが、こちらが何を言っているのだかまったくわからないらしく、自分の作業にすぐに戻ってしまう。他に助けを求めてもどうしようもない。こうなったら唯一残された助かる方法、座礁させる覚悟で岬沿いを進める。が座礁と言っても岩場に乗り上げれば波と岩に砕かれこんな船はこっぱ微塵となるだろう。どこかに砂浜はないかと必死になって探す。ふと前方を見れば白い防波堤が見え隠れしている。もうちょっとの我慢だ。なんとか持ちこたえてくれ。祈る気持ちで1530時、やっとの思いでその防波堤を周り込み、小さい漁港の岸壁に舫いを取る。安心するのもつかの間、漁港を走りまわって電話を探す。この頃にはまだ携帯電話なんて今のように一般的ではなく持っていなかった。そうして走り回り、見つけた公衆電話で最初にかけた先は…
笑ってしまうだろうが、躊躇無く119番をまわした。事情を説明するのももどかしく、とにかく消防車のポンプで浸水した海水をかきだしてもらうことを要請。その次にかけたのは、公衆電話にあった古い電話帳をめくり、クレーン車を2台、至急の手配。その最中に早くも消防車のサイレン音、岸壁に繋いだ船を見ればまだ浮いている。ありがたい!助かった!
急いで船に戻り、消防車のホースをとにかく突っ込んで、大量のビルジ排出をしてもらう。そうこうしているうちにクレーン車が2台かけつけてくれ、急いでその場で上架する段取り。そして水から揚がった船にはじめて機関士とともに安堵した。
早速水から揚がった船の船底を下から確認する。ぶつけた後や亀裂は当然白い船体には見えない。いぶかりながら、海水が排出された船に乗り移り、くまなく原因を調べて見ると、右舷側の排気ミキサーの溶接部に亀裂があり、そこから大量の海水が一気になだれ込んでいたらしい。これは船のたわみが、外洋の波と風のちからに翻弄され、一番弱い排気ミキサーの接合部に亀裂を作った。
原因がわかってほっとし、そしてやっと3番目の電話で依頼主である造船所に仔細を報告した。もちろん担当者は驚いていた。とにかく急いでここ、三尾漁港に駆けつけてくれるとのこと。とにかく難を避けたという安堵から、電話の報告後に急に力が抜けた。
こんな回航請負業、スタートしたのはよいがこれからやっていけるのだろうか。そんな不安が頭をよぎる。が、今は考える力も残されてはいない。寝袋に包まって寝てしまう。
翌27日、1000時、早々と造船所の担当課長以下4名で現場を訪れてくれた。
「沈んでいたかもしれないのに、よく、船を救ってくれました。」
と今更ながらぞっとするお褒めをいただく。
事情説明は予め昨夜の電話連絡でしておいたので、早速排気管の溶接を手配してくれ、その日の夕方には補強を済ませた右舷排気管の取りつけを完了した。ただ、心残りだったのは左舷の排気管も一緒にやってはとお願いをしたのだが、現実的に亀裂がはいっているわけではないので様子を見ることだった。だが、串本まで行けばその造船所の代理店があるという。
とにかくも出港が可能になった1830時、すでに暗い海を串本目指し出港。外海は昼程ではないものの、あいかわらず追いの北西が吹いていた。本船を探しその後ろにくっついて潮の岬をかわし、灯台の明かりを頼りに大島との暗くて心細い狭い水路を辿って2200時、串本に着岸。着岸と同時に排気管を確認すると、まださほど大事にはいたっていなかったのが幸いだったが、右舷側にうっすらと亀裂が入っている。
夜中とは言え、遠慮せずに代理店に電話をし、応急処置を依頼。すでに連絡を受けていたのか、夜を徹して作業してくれ、280リッターの給油も済まし、翌28日1020時に出港することができた。今日で4日目、本来ならば今晩横須賀に入るはずだったのだが、まだ串本。
あせりは禁物なのだが、夜を走ってでもなんとか挽回したい。
が、そんな時、天のいたずらがはじまった。西高東低の気象配置は、アリュ-シャン列島あたりの低気圧が異様に発達し停滞、真西の風が吹きすさぶ。そんな中、とにかく行ける所まで行こうと、風の影響の少ない岸沿いを、あせる気持ちとは裏腹にとことこと走る。大王をかわし、1745時、伊勢の的矢港。まだまだ先は長い。さすがに疲労のきわみになっている体を労わり睡眠を取る。日付の変わった0315時、的矢を出港。静かな湾を抜け出ると、伊良子水道は打って変った海の顔、西風に押され、その波が突き出た半島に跳ね返されて複雑な、非常に深い三角波が立っていた。10ノット前後は言え、フライブリッジの上は時折突っ込む波頭が越えていき、ただでさえ暗い海、とても操船する状態ではない。戻るしかないかと考えていた0400時、左舷ペラにいきなり激しい振動が出た。こんなときに!そう、ペラに何かを巻いたかのようだった。最悪だ。躊躇する事無く反転し、片ハイであえぎながら戻る。0530時。強い西風に星空が揺れている。空気は凍え張り詰めている。気温なんてあるのだろうか。とにかく潜ってプロペラを確認しなければならないが、まだ真っ暗な海。防水の懐中電灯で確認してもたかがしれているだろうが、やることはやらなくては。
プレジャーボートでこんなことがあるとはつゆ知らず潜水の装備は用意してない。
付近にいる漁船に相談をし、とにかく水中マスクだけを借りる。そして覚悟を決め、いきなり心臓が早鐘を打つような冷たい海にはいる。ドボンと飛び込んでしまったら楽なようだが、それこそ体が、心臓がもたないだろう。地獄のように荒れた海でも船を操船するのは自分との戦いだけだが、冷たい海に裸で入るのは体がどこまで絶えてくれるのかわからない。
真っ暗な海中、頼りない懐中電灯の明かりでペラを見てみると、やはりロープが絡まっている。これを取り除かない限り出港はできない。凍る体と時間の勝負だが、冷えは体力を奪い思い通りにロープが切れない。これ以上は限界だと思うとき、ようやっとロープが除去できた。
が、機関士に抱えられるようにして船にあがった体は震えが止まらない。無理をしすぎたのだろう、そう簡単には回復しなかった。
外海はあいかわらず荒れつづけていると漁師から聞いた。収まるまで、そして体力が回復するまでここで束の間休んでも、自分との戦い、許してくれるだろう。

結局その日は出港することができずに、翌30日、0730出港した。
低気圧がさらに発達したのか、真西の風はますます強く、外海は荒れ狂い、まったく衰えを知らない。船、潜水艦とは良く言うが、風波に翻弄され彼女は体中で悲鳴をあげている。我々の根性も壊れそうだ。この伊良子水道さえ乗り越えれば渥美半島の岸沿いはブランケとなるはずなのだが、とにかくも数マイル先の石鏡漁港、そうここは歌手の鳥羽一郎の故郷、そこに0830へいへいの体で入港する。とてもではないが、この船ではあの彫れた波の中を安全には巡航できない。無理をするのはよそう。こんな船でも自分達の命を守ってくれる、愛しい船を離れる事無くそこで風が収まるのを待つ。
1月31日0630時。日の出前の薄暗い中出港。だいぶ波は収まった。0700神島通過。海からあがった太陽が励ましてくれる。渥美半島のそりたった崖を左にみながら、浜名湖大橋の下をくぐったのが0940。214リッターの給油を済まし、1020出港。1330御前崎を注意深く周り込み着岸。160リットルの給油。富士山はくっきりとその美しい姿を遠望でき、遠州灘は相変わらず厳しい顔をしている。付近の漁師に聞くと、出て行かない方が良いと皆が口裏合わせたように言う。さらにこの船、とにかく追い波の安定性はすこぶる悪くブローチングしようとする彼女を当て舵でなだめるのに精一杯。性格が悪いのではない。箱入り娘よろしく外海には体がひ弱なのだ。強い風当たりに操船の許容範囲では収まってくれない。サロンでは、立て付けが悪いのか、それとも船全体のたわみに耐えられなかったのかウインドシールドからも潮が漏っている。排気管はかなり厳重に補強したせいか、亀裂はあれ以降見られないのがせめてものこと。命を託す船、向き不向きがある。安いからと購入してしまえば、結局自分達の命をかけた高いものとなる。さらに、ここまでこまめに燃料を補給してきたのは、実は燃料タンクが一杯の時にはそれがバラストとなって重心を下げ、多少でも安定するのだが、少しでも減ってバラストが崩れてくると、もう船はしっちゃかめっちゃか、ヒステリックなローリング、ピッチングを繰り返しスタビリティーが一気に悪化することが良くわかったからだった。
ここまできて、無理をしても仕方がない。漁師の言葉通り、ここで風待ちをすることにする。月も明けて2月1日。4日で行くはずだったのが出港してからすでに8日目。0315時。朝凪が始まっているのを見て出港。
昨日とは打って変って、みるみる穏やかになっていく海を順調に走り、0500石廊通過。1130剣崎、1300、やっとの思いで横須賀にたどり着いた。正直、これからこんなプレジャーボートの回航業なんてやっていけるのか、そんな不安が心を占める。
が、着いてみると桟橋には花束を持って出迎えてくれる造船所の人々。
人々の笑顔。それを見たときはじめて、その達成感と満足感がとてつもなく大きいことに感動をした。
自分との戦いである回航、それをプロとして楽しみとなりえるここにこれからの生業をかけてみる気になった。